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楠本 海山(くすもと かいざん、1873年(明治6年)3月2日 - 1921年(大正10年)2月5日)は明治から大正にかけての儒学者。楠本端山の子で、楠本正継の父。名は正翼(まさすけ)、字は君翔、別号は晦堂、俟斎主人、遜斎主人、鳶魚斎〔。 == 生涯 == 1873年(明治6年)3月2日午後、楠本端山の子として長崎県松浦郡平戸村稗田(平戸市)に生まれた〔柴田篤「楠本海山覚書 ―ある崎門学者の生涯と著述―」『香椎潟』第49号、福岡女子大学、2003年〕。側室腹だったが、正室には男子がなく、嫡子として育てられた〔。将来「其の祥翼を正張し、千仞の上に翺翔」することを願って、父に名を正翼、字を君翔と名付けられた〔。 1881年(明治14年)春、父が松浦詮私塾猶興書院を退職し、故郷針尾島(佐世保市)に移ったため、これに従った〔。1883年(明治16年)2月、父と叔父碩水の開いた鳳鳴書院に入学したが、父は3月に死去し、以後は碩水に育てられた〔。 1895年(明治28年)秋、京都に上り、途中広島に吉村彰、大阪に吉田英厚を訪れた〔。1898年(明治31年)春、伊勢神宮を参詣した後、桑名で秋山断に入門し、碩水が編纂中の『崎門学脈系譜』『日本道学淵源録』の資料収集に当たった〔。桑名に20日間滞在後、名古屋で永井石村、東京で舞田養浩、内田遠湖、岡彪村等に会い、帰郷後、『日本道学淵源録』編纂を手伝った〔。1903年(明治36年)11月、『端山先生遺書』を出版した。 1905年(明治38年)、東彼杵郡崎針尾村長に選ばれたが、名誉職に過ぎかったといい、1907年(明治40年)4月、病気のため辞職した〔。1919年(大正8年)10月、碩水の口述を編録して『聖学要領』を出版した。1921年(大正10年)2月5日、針尾の自宅で死去した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「楠本海山」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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