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楠木氏(くすのきし)は、河内国の豪族で、南北朝時代に活躍した南朝方の武家。「楠氏」と表記される事もある。 == 歴史 == 本姓は橘氏。一般に伊予橘氏(越智氏の分家)の橘遠保の末裔という(『系図纂要』など)。しかし、楠木正成以前の系図は諸家で一致せず、確実なのは、河内の悪党の棟梁格だったことである。 『尊卑分脈』(橘氏系図)や『太平記』は正成の出自を橘氏嫡流系統の為政の後裔とする。 また諸家には、同じく橘姓の熊野国造和田氏の出身とする系図も多く(『古代氏族系譜集成』参照)、最も有力視されている。正成の一族以外の子孫が多く和田氏を称しているのは、和田氏に復したものと考えられる。 戦後、名和氏と同じく辰砂の採掘権と技術を有した商人的武装集団の頭目説、散所の長者説などが出されたが、いまだ定説は存在しない。また、河内国の金剛山観心寺領の在地豪族ともされるが、河内国や近隣には「楠木」という苗字の元となる地名はない。 東国武家集団が北条得宗家の被官(御内人)として、赤松氏と共に播磨や摂津・南河内・和泉など北条氏の守護国などの得宗領に移住し、そのまま土着したとする説もある。『吾妻鏡』によると、楠木氏は元は関東にいた御家人で、玉井氏・忍氏・岡部氏・滝瀬氏ら武蔵七党の横山党や猪俣党と並ぶ家柄であり、もともとは利根川流域に基盤をもつ東国武士の有力集団の一派だったという。また、駿河国入江荘楠木村(現静岡市清水区)を出自とする武士とも言う。鎌倉幕府が1293年に楠木村を鶴岡八幡宮に寄進したという記録があるうえ、当時幕府の有力御家人だった長崎氏の出自は楠木村の隣の長崎郷で河内に領地を保有していた。その関係で楠木氏が河内に移ったと言う。1333年の公家の日記に「楠木の根は鎌倉に成るものを……」と言う落首が記録されていることも楠木氏が元々東国の出身だったことを意味していると言われている。なお、現在も清水区には「楠」「長崎」の地名が残っている。(古文書には「楠木」、「楠」両方出てくる)。 他に、秦氏の系統とする説、熊野新宮神職楠氏の系統とする説(『熊野年代記』)もある。 史料上はっきり記されているのは、鎌倉時代後期に楠木正成が後醍醐天皇が鎌倉幕府に対して挙兵した元弘の乱において宮方に従い、幕府滅亡後に成立した建武政権に加わり、南北朝時代に南朝(吉野朝廷)方として活躍した以降である。 その後正成の子の正行、正時や、正成の弟の正季などは北朝の足利尊氏との戦いで戦死し、生き残った正成の子の正儀は南朝零落後にも有力武将として活躍し、北朝との和睦を仲介する。その後、正儀の子孫は播磨国で平木氏を名乗ったとも言われている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「楠木氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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