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楠浦昌勝(くすほ まさかつ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣。「昌勝」は諱で、官途名は刑部少輔、仮名は清三。虎常(若狭守)は子か。 == 略歴 == 昌勝は武田信昌・信縄期から信虎(信直)期にかけての有力側近で、楠浦氏は信虎の側室を輩出している。「楠浦」は甲斐南部の河内領に位置し、戦国期に同地は穴山氏が支配しており、楠浦氏と当地との関わりは無くなっていたと考えられている〔『武田信玄大辞典』、p.123〕。永正7年(1510年)の永昌院住持菊隠瑞譚書状では「清三」と呼ばれており、信虎期に形部少輔に改称したと考えられている。 初見文書は文亀4年(1504年)2月で、昌勝は向嶽庵大衆からの訴訟について、当主信昌・信縄の意向を踏まえてこれを処理している〔『山梨県史』資料編4、385・386号〕。また、同年閏3月には伊勢御師幸福太夫に神馬を送り、神宮での祈願を依頼している〔『山資』5下、2456号〕。昌勝は主に外交面での働きが顕著で、年不詳3月には曽根昌長と連名で将軍足利義晴から信虎に対する上洛要請について回答しており〔『秋田藩家蔵文書』『戦国遺文武田氏編』 - 3811・3821号)〕、対室町幕府の取次を務めていたと考えられている。 虎常は子と推測されているが、次代の晴信(信玄)期には楠浦氏の活動は見られなくなり、天文10年(1541年)の信虎追放を機に没落したと考えられている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「楠浦昌勝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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