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楠瀬喜多(くすのせ きた、天保7年9月9日(1836年10月18日) - 大正9年(1920年)10月18日)は日本の婦人運動家。高知県(当時の土佐藩)生まれ。通称、民権ばあさん。 == 経歴 == 1836年に当時の土佐藩で生まれる。1857年には、土佐藩の剣道指南役を勤める楠瀬実と結婚するが、1874年に死別。2人の間には、養子を含めて子供がいなかったので、楠瀬が戸主として相続した。しかし、1878年、高知県区会議員選挙で戸主として納税しているのにもかかわらず、女性であることを理由に投票が認められなかった。なお、当時の府県会規則には、「選挙資格は、満20歳以上の男子で、その郡区内に本籍を定め、地租5円以上を納める者(同法第14条)」と定められていたものの、府県会の下部組織である区町村会については郡区町村編制法に全国的な統一基準が設けられてはいなかったのである。これに対し、楠瀬は女性であるだけで、選挙権が認められないことに抗議して税金を滞納した。同時に高知県庁へ抗議文〔「納税ノ儀ニ付御指令願ノ事」として提出された。〕を提出。だが、高知県側は、楠瀬の要求の受け入れを拒否したため〔回答文書を「朱書指令」という。〕、楠瀬は内務省にまで意見書を提出した。結果的にこの選挙での投票はかなわなかったものの、自由民権運動と結びつき、1880年9月20日に政府より区町村会法が発布され、区町村会選挙規則制定権が各区町村会で認められた。こうして日本で初めて、戸主に限り、女性参政権が正式に認められるに至った。その後、隣の小高坂村でも同様に認められた(しかし、1884年に政府が区町村会法の改正によって、規則制定権を区町村会から取り上げられて、参政権は男性のみと規定された)。その後も女性解放運動を続け、楠瀬の名は「民権ばあさん」として知られわたった。そして1920年、大正デモクラシーが叫ばれる最中に亡くなった。享年84。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「楠瀬喜多」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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