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撫順戦犯管理所(ぶじゅんせんぱんかんりしょ、簡体字:)は、撫順市順城区にあった中華人民共和国による戦犯管理所。 満州国時代は、撫順監獄であったところを戦犯管理所に改造し、1950年ソ連より引き渡された900人以上の日本人や満州国の戦犯を収容し、周恩来の方針で、人道的な扱いを行い、使役なしで自由にさせながら、5年をかけ自然に各自の中国での戦争犯罪の自覚・認罪に導いた。 正直に認罪すれば寛大な裁判を約束し、各自が自分の戦争犯罪の告白書を作成したが、自分の犯罪を隠すことも逆に誇大にすることも禁止され、事実のみ記述するように指導された。このため、正直に告白すれば死刑にされるはず、隠せば厳しく罰せられるとの思いの板挟みで自殺者も出た。また告白の裏付け調査も厳密に行い、事実に基づき裁判した。 1956年にB級戦犯裁判が行われ、当初寛大な裁判を約束したが、最初は、法に従う限り犯罪の重大性から複数の死刑や無期懲役の戦犯の判決を作成した。しかし、国際外交を司っていた周恩来の超法規の命令で、死刑も無期懲役もなし、懲役期間にシベリア抑留期間の6年間を含め、更に、大多数の戦犯は十分反省していると認め、起訴猶予、即時、日本帰国の判決を下した。自分の戦争犯罪の事実のみの告白だったので、日本に帰国した後も、告白を変更・否定する事はなかった。また、人道的な戦犯の扱い、寛大な判決に感謝し、日本国内で、中国での戦争犯罪の証言活動を続け、その後の反戦平和運動を担った。 満州国戦犯の中で愛新覚羅溥儀が最も有名で、有名な映画「ラスト・エンペラー」は、かつてここで撮影された。 日本人戦犯は、1964年迄に帰国し、日本国内で差別されたので中国帰還者連絡会を結成し助け合った。 1987年、観光地として開放的された。2006年、撫順戦犯管理所旧址として、中華人民共和国全国重点文物保護単位(分類近現代重要史跡及代表性建築、編号6-920)に登録された。 == 主な収容者 == *愛新覚羅溥儀、愛新覚羅溥傑、愛新覚羅毓セン、張景恵、張煥相、盧元善、谷次亨、黄富俊、丁超、金名世 、于鏡濤、吉興、于静遠、阮振鐸、カンジュルジャブ、ジョンジュルジャブ *武部六蔵(国務院総務庁長官)、古海忠之(国務院総務庁次長)、今吉均(満州国警察総局警務処長)、柏葉勇一(撫順警察局長)、斉藤美夫(満州国憲兵訓練所長少将)、富永順太郎(日本特務華北交通防衛本部、いわゆる富永機関)、佐々木到一(陸軍中将)、鈴木啓久(陸軍中将)、藤田茂(陸軍中将)、城野宏(山西省軍司令官)、佐々真之助(陸軍少将)、金子安次(陸軍兵士) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「撫順戦犯管理所」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Fushun War Criminals Management Centre 」があります。 スポンサード リンク
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