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楼煩(ろうはん、拼音:Lóufán、上古音:lo bian〔王力: http://www.eastling.org/OC/oldage.aspx〕)とは、古代の民族あるいは、その国家。遊牧を生業とし、その領土は今日の中国山西省、オルドス地方一帯である。後に趙に滅ぼされ、その故地にはが置かれた。匈奴の祖先の1つと見られており、北へ移動した部族は、冒頓単于の時代に匈奴に併合された。 ==歴史== 楼煩は、周に服属し、朝貢した〔《逸周書》〈王會解〉:「樓煩以星施,星施者,珥旄。」〕〔《:zh:晉乘蒐略》卷2:「周成王時,樓煩子入朝于京師。」〕。春秋時代には、晋の北方に住み、とともに戎の1つと見なされ、多くの部族に分かれていた〔《史記》〈匈奴列傳〉:「而晉北有林胡、樓煩之戎,燕北有東胡、山戎。各分散居谿谷,自有君長,往往而聚者百有餘戎,然莫能相一。」〕。 戦国時代初期、趙の武霊王は騎馬民族から取り入れたを導入し、山西の楼煩国を破った。楼煩人は北へ追いやられ、趙、燕に服属することとなった。趙は、楼煩の故地を領有し、雁門郡を設置した〔《戰國策》卷12:「昔者齊、燕戰於桓之曲,燕不勝,十萬之眾盡。胡人襲燕、樓煩數縣,取其牛馬。」註:「樓煩,屬雁門。」〕。 匈奴の冒頓単于の時代には、楼煩は東胡とともに破られ、部族は併合されるとともに匈奴がオルドス地方を領有した〔《史記》〈匈奴列傳〉:「東胡初輕冒頓,不為備。及冒頓以兵至,擊,大破滅東胡王,而虜其民人及畜產。既歸,西擊走月氏,南并樓煩、白羊河南王。」〕。 楚漢戦争の時代、劉邦の陣営には楼煩の武将がいたと伝わる〔《史記》〈項羽本紀〉:「漢有善騎射者,樓煩。楚挑戰三合,樓煩輒射殺之。」集解:「應劭曰:『樓煩,胡也。今樓煩縣。』」〕。しかし、項羽の陣営にもおり、当時は騎射に長けた者は往々にして皆「楼煩」と呼ばれたためとも考えられる〔《史記》卷95〈樊酈滕灌列傳〉:「擊項羽之將項冠於魯下,破之,所將卒斬右司馬、騎將各一人。擊破柘公王武,軍於燕西,所將卒斬樓煩將五人,連尹一人。」 集解:「李奇曰:『樓煩,縣名。其人善騎射,故以名射士為「樓煩」,取其美稱,未必樓煩人也。』張晏曰:『樓煩,胡國名也。』」〕。 紀元前127年、前漢の武将衛青は匈奴の楼煩王、白羊王を破り、オルドス地方を獲得しを設置した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「楼煩」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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