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楊麗華(よう れいか、561年 - 609年)は、中国の北周の宣帝の皇后。後に隋の楽平公主となった。隋の文帝楊堅と皇后独孤伽羅の長女である。 == 経歴 == 宣帝が皇太子だったとき、東宮に入って皇太子妃に立てられた。578年閏6月、皇后に立てられた。579年2月、宣帝が天元皇帝を自称すると、麗華は天元皇后を号した。7月、朱満月が天皇后となり、陳月儀が天左皇后となり、元楽尚が天右皇后となって、後宮に4人の皇后が並びたった。580年2月、天元大皇后となった。3月、陳月儀が天中大皇后となり、尉遅熾繁が天左大皇后となったため、5皇后となった。 麗華は性格が穏やかで、嫉妬心を持たなかったので、4皇后や嬪御たちにも敬愛された。宣帝はひとたび昏倒して臥せると、その喜怒が度を越すようになった。あるとき麗華を責めて罰を加えようとしたが、麗華は冷静に受け答えしたので、宣帝は逆上して麗華に死を賜ろうとした。麗華の母の独孤伽羅がこのことを聞くと、宮殿を訪れて陳謝し、流血するまで叩頭したので、罪を免れることができた。5月、宣帝が死去すると、静帝により皇太后に立てられ、弘聖宮に住んだ。 劉昉・鄭訳らは宣帝の遺詔といつわって、麗華の父の随国公楊堅が輔政を託されたと公表した。麗華は陰謀に参加しておらず、静帝が幼少のため他族に専横されるのを恐れて、劉昉・鄭訳らがこの詔を実行するのを喜んでいた。しかし父に簒奪の意図があると知って、不満を抱き、言動にも現れた。581年2月、禅譲が実行されて隋が建国されると、麗華の憤懣ははなはだしかった。文帝は麗華を譴責することもできず、内々に恥じ入るしかなかった。586年、楽平公主に封ぜられた。文帝は麗華を再嫁させようとしたが、麗華は誓って許さず、取りやめられた。609年、煬帝に従って張掖におもむき、河西で死去した。享年は49。煬帝が長安に帰ると、麗華の遺体は定陵に葬られた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「楊麗華」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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