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榊原 忠之(さかきばら ただゆき、明和3年(1766年) - 天保8年7月20日(1837年8月20日))は江戸時代後期の旗本。 織田信昆(旗本織田信義の四男)の三男で榊原忠尭の養子。妻は藤懸永種の娘。勘定奉行や新潟奉行に就任した榊原忠義は長男。初名は織田信成。通称は権之助、隼人助、弥兵平衛、隼人助。官位は従五位下主計頭。 == 経歴 == 寛政8年(1796年)4月19日、養父忠尭の隠居により家督を相続、11代将軍徳川家斉に拝謁する。榊原家は下総国海上郡内などで700石を領有する旗本であった。徒士頭、西ノ丸目付、小普請奉行と昇進し、主計頭に叙任。文化12年(1816年)には勘定奉行に、文政2年(1819年)閏4月1日に北町奉行に栄転した。 忠之は迅速かつそつのない裁決で、在任中に鼠小僧次郎吉、相馬大作、木鼠吉五郎など、世間を騒がせた規模の大きい裁判も多数担当した。木鼠吉五郎を尋問した際には、吉五郎が最後まで自白しなかったため、察斗詰を老中に申請して措置を下した。天保7年(1836年)9月20日、長く要職をつとめた町奉行から旗本の名誉職である大目付に転任した。さらに、天保8年(1837年)5月16日に留守居に転じたが、同年7月20日に死去、享年72。 水野忠邦から台付の流行を取り締まるよう命じられた時、富くじを幕府公認の博打として許しながら、金の変動がより零細な台付のみを取り締まれというのは道理に合わないと喝破したという。また、癒着を求めて商人杉本茂十郎が賄賂を差し出してきた折には、逆に杉本を摘発するなど、剛直で私曲のない人物を伺わせる話が伝わっている。 墓は芝・増上寺塔中の安蓮社(現・東京都港区芝公園三丁目の浄土宗安蓮社)境内に墓塔(宝筐院塔)のみある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「榊原忠之」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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