|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 榊 : [さかき] 【名詞】 1. sakaki tree (sacred Shinto tree) 2. Cleyera japonica ・ 田 : [た] 【名詞】 1. rice field ・ 二 : [に] 1. (num) two
榊田 敬二(さかきだ けいじ、1900年1月15日 - 没年不詳)は、日本の俳優である〔キネマ旬報社, p.235.〕〔''榊田敬二''、日本映画情報システム、文化庁、2012年12月12日閲覧。〕〔''榊田敬二''、KINENOTE、2012年12月12日閲覧。〕〔''榊田敬二''、日活データベース、2012年12月12日閲覧。〕〔''榊田敬二''、映画データベース、東宝、2012年12月12日閲覧。〕。本名・旧芸名は榊田 敬治(さかきだ けいじ)〔〔。おもに現代劇に出演し、戦後は東宝特撮に多く出演〔〔。 == 人物・来歴 == 1900年(明治33年)1月15日、秋田県仙北郡大曲町(現在の同県大仙市大曲地区)に生まれる〔〔。 東京に移り、旧制・赤坂中学校(現在の日本大学第三高等学校)を卒業後、1921年(大正10年)10月、高田馬場に撮影所を持つ小松商会に入社し、『熱火の狼』に出演し、満21歳で映画界にデビューした〔。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の後、京都に移り、日活大将軍撮影所に入社、1924年(大正13年)7月4日に公開された三枝源次郎監督の『民族の黎明』に出演している〔。同撮影所での出演記録は不明であるが、1926年(大正15年)早々までには東京に移り、高松豊次郎のタカマツ・アズマプロダクションの作品に出演。同年1月22日に公開された山本嘉次郎および横田豊秋(のちの俳優宇留木浩)の共同監督による『男児一諾』に出演しているが、同作の製作は「マキノ・プロダクション東京撮影所」(マキノ東京派)、実体は「タカマツ・アズマプロダクション」である。1927年(昭和2年)秋には京都に戻り、日活大将軍撮影所で脇役を務めている。 1930年(昭和5年)、太秦撮影所を使用していた帝国キネマ演芸に移籍し、同年11月20日に公開された高見貞衛監督の『素晴らしい奴』等に出演したが、同社は翌1931年(昭和6年)8月28日に新興キネマに改組されたため、榊田は、この新会社に継続入社する〔。1935年(昭和10年)12月末、太秦帷子ヶ辻中開町(現在の右京区太秦堀ヶ内町)に、牧野省三の長男であるマキノ正博がトーキーのための新しい撮影所を建設した新会社、マキノトーキー製作所を設立、これに参加する〔''榊田敬治''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年12月11日閲覧。〕。同社は1937年(昭和12年)4月に解散するが、榊田は前年中に東京に移り、P.C.L.映画製作所に参加、1937年(昭和12年)9月10日に合併して設立された東宝映画に継続入社〔。これを機に従来本名を用いていたが、芸名を「榊田 敬二」とする〔。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)8月15日以降も、東宝争議以降も、東宝に所属し、多くの作品に出演を続けた〔。満62歳を迎えた1962年(昭和37年) - 1965年(昭和40年)の間は、ペースをダウンして休業した〔。満68歳を迎え、1968年(昭和43年)6月8日に公開された森谷司郎監督の『首』を最後に引退したが〔、1975年(昭和50年)3月15日に公開された本多猪四郎監督の『メカゴジラの逆襲』まで、端役で出演した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「榊田敬二」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|