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槇山 次郎(まきやま じろう、1896年10月16日 - 1986年12月5日)は、日本の古生物学者、地質学者、貝類学者。日本貝類学会名誉会長。日本古生物学会元会長、日本地質学会元会長。 ナウマンゾウを記載したことで知られる。 == 略歴 == 1896年、秋田県に生まれる。父は教育者であり、当時奈良女子高等師範学校の校長であった槇山栄次〔波部忠重 (1987)「弔辞(故槙山次郎名誉会長追悼)」ちりぼたん 18(1), 1-3〕。札幌を経て東京に転居〔。 1909年に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1914年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。第二高等学校(現・東北大学)を経て東京帝国大学に進学〔池辺 展生 (1987)「槇山次郎先生を悼む」 地質學雜誌 93(2), 165-166〕、横山又次郎などに師事して地質学を専攻した〔池辺展生(1987)「槇山先生 (1896-1986) を偲ぶ : 特に貝に関係したことがらについて」ちりぼたん 18(1), 4-7〕。 1920年に同大卒業後、大学院に進学〔糸魚川淳二(1987)「槇山次郎先生を悼む」化石 (42), 46-47〕。しかし同年、京都帝国大学に理学部地質学鉱物学教室が新設され、翌年の1921年から同教室の講師に就任した〔〔。1923年には同大で助教授になった〔。1924年には、浜名湖(静岡県)付近で発見された化石を、新種(発表当時は新亜種)のゾウとして記載を行い、和名をナウマンゾウとした。 1927-1929年にかけてイギリス、オーストリアに留学、大英博物館などに収蔵されている日本産貝類の研究を行った〔。1928年には日本貝類学会の設立者の一人として同学会を立ち上げ、実質的な会長の役割を勤めた(なお1937年からは正式に同学会の初代会長に就任し、1948年まで会長の座に付いていた)〔。 帰国後、1930年に京都大学教授に就任、翌年の1931年に理学博士を取得した〔。1941-1942年に日本古生物学会会長、1946-1947年に日本地質学会会長を歴任。1959年に京都大学を定年退職するまでに、地質学、層序学、古生物学などの分野で研究結果を発表し、多数の門下生を輩出したとされる〔。 退職後は京都大学名誉教授となったほか、帝国石油株式会社顧問、同志社大学講師、帝塚山大学名誉教授を歴任〔。80歳の頃に帝塚山大学名誉教授を退職し、研究の傍ら、趣味のスケートなどに取り組んでいた。なおスケートでは国際審判も勤めた経験があり、日本スケート連盟名誉審判員としても名を連ねた〔石田志朗 (1987)「槇山先生を偲ぶ(故槙山次郎名誉会長追悼) ちりぼたん 18(1), 10-11〕。 1986年12月5日、京都市の自宅で死去。享年90。葬儀は京都市中京区の長徳寺で行われ、親族や知人、門下生らが参列した〔。生涯に16冊の著書を刊行したほか、発表した論文は100編以上を数える〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「槇山次郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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