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槙枝 元文(まきえだ もとふみ、1921年3月4日 - 2010年12月4日〔「槙枝元文氏死去 元総評議長・元日教組委員長」 - 47NEWS(よんななニュース) 〕)は、日本の教育者、労働運動家。日本教職員組合委員長、日本労働組合総評議会(総評)議長を務めた。計30年に渡って日教組の中央役員を務めて大きな影響力を持ったことからミスター日教組とも呼ばれた。子息の槙枝一臣は弁護士。 ==人物== 岡山県生まれ。1940年に岡山県立青年学校教員養成所(現・岡山大学教育学部)卒業し、都窪郡の早島青年学校に教師として赴任。1942年から終戦まで召集され、最終経歴は陸軍憲兵中尉。終戦後1946年同校に帰任し、翌年の新学制に伴い中学校の教師に。計5年、教壇に立った。地元の組合づくりに携わり、都窪郡教組の青年部長に就任や岡山県教組の役員を務める。1949年から日教組の中央執行委員となり、法制部長・情宣部長・組織部長など要職を経る。1954年に岡山県教組に復帰し書記長についた。 勤評闘争の運動方針をめぐって日教組で右派の宮之原貞光派と左派の平垣美代司派が対立するなか、宮之原派の中心的人物として1958年に日教組書記次長に就任して書記長となった宮之原を支えた。日教組の日本社会党一党支持の決定、全国学力テスト反対闘争で中心的な役割を果たした。1962年、宮之原の中央執行委員長就任とともに書記長に昇格。高度成長を受けて従来の政治闘争の重視の運動から、宿直・日直の廃止や超過勤務手当支給などを要求する経済闘争の重視へと運動の軸足を移した。1966年10月には宿日直廃止・超勤手当要求を含む賃金闘争で半日休暇闘争(ストライキ)を指導したとして、地方公務員法違反で逮捕されている。1971年に宮之原に代わって中央執行委員長に。主任制反対、業者テスト不使用運動、学校週5日制の導入の提唱などをし、12年間務めた。1974年4月にも国民春闘統一ストライキへの日教組の全日ストライキ参加に関連して地公法違反で逮捕されている〔 〕。1976年からは総評議長も兼任して「二足のわらじ」を履くこととなり、富塚三夫事務局長(国労書記長)とコンビを組んだ。労働運動が下り坂のなか「開かれた総評」を掲げるも、社共共闘よりも社会党・公明党中軸路線を進め、後の連合への参加への道を開いたことになる。1983年に日教組委員長・総評議長を退任する〔「槙枝元文さん死去 日教組元委員長・総評元議長」『朝日新聞』、2010年10月6日付〕。 退任後は日中技能者交流センター理事長・会長、朝鮮の自主的平和統一支持日本委員会議長、自主・平和・民主のための広範な国民連合(日本労働党系の統一戦線組織)代表世話人などを務めていた。2010年12月4日午前9時15分、肺炎のため東京都内の病院で死去。89歳没〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「槙枝元文」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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