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樊 鍾秀(はん しょうしゅう)は、中華民国の軍人。当初は北京政府の直隷派などに属したが、後に孫文(孫中山)陣営に転じ、国民革命軍の一員となる。旧名は鐸。字は醒民。 == 事跡 == 幼い頃は最初は旧学を学んでいたが、13歳で嵩山少林寺に赴き、拳術・棒術を習得する。1911年(宣統3年)、檄に応じて武漢に赴き、河南省で挙兵していた革命派の王天縦の代表をつとめた。1913年(民国2年)、河南都督張鎮芳の圧力で王の軍が解散されると、樊鍾秀も張に指名手配されたため、陝西省の黄竜山に逃れて開墾に勤しんだ。 1915年(民国4年)、樊鍾秀は陝西省の陳樹藩の軍に加入する。1918年(民国7年)2月、胡景翼が組織した陝西靖国軍に加わり、6月には第2路司令に任ぜられた。翌年3月、陝西省駐屯中の攝陝奉軍司令(奉天派)許蘭洲に降り、第1支隊司令に任ぜられている。1920年(民国9年)、許の陝西撤退に伴い、樊は河南に戻る。直隷派の河南都督の下で豫軍第5旅旅長に任ぜられたが、まもなく湖南省北部へ派遣され、同じ直隷派の張福来配下とされた。1922年(民国11年)8月、陸軍少将に昇進する。 1923年(民国12年)、呉佩孚の命令により江西省南部に派遣されたが、樊鍾秀はこれを機に孫文陣営に転じる。同年11月、陳炯明討伐に貢献し、孫から討賊豫軍総司令に任ぜられた。翌1924年(民国13年)1月、中国国民党第1期候補中央監察委員に選出されている。同年10月、建国軍北伐先遣隊総指揮に任ぜられた。 1925年(民国14年)、討賊豫軍は建国豫軍に改組され、引き続き樊鍾秀が総司令をつとめ、北伐軍を率いて河南入りした。このとき、国民軍第2軍軍長をつとめていた胡景翼と連携している。なお1926年(民国15年)4月に、西山会議派が上海で開いた第2回全国代表大会において、中央監察委員に任ぜられている。同年9月、国民革命軍第13軍軍長に任ぜられ、翌1927年(民国16年)6月には第45軍軍長とされた。10月の寧漢戦争では、豫軍総司令をつとめている。 1930年(民国19年)、樊鍾秀は河南省に戻り、旧所属部隊を再編して総司令を自称した。同年、馮玉祥らが反蒋介石の中原大戦を発動すると、樊もこれに加わり、討蒋第8方面軍総司令に任ぜられている。しかし5月25日、樊は戦線視察中に許昌で蒋軍の爆撃に遭い、死亡した。享年43。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「樊鍾秀」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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