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樋口 富麻呂(ひぐち とみまろ、1898年(明治31年)3月1日 - 1981年(昭和56年)11月7日)は、大正時代から昭和時代にかけての日本画家、版画家。 == 来歴 == 北野恒富の門人。1898年3月1日、大阪府大阪市に生まれる。本名は秀夫。富麻呂、富麿と号す。富麻呂は1910年頃から同郷の北野恒富に師事し、1915年から作画を始め、同年の第9回文展に出品した「つやさん」で初入選した後、1917年から1919年まで帝展に連続入選を果たしている。今度は院展に活動の場を移し、第12回再興第10回院展に「麻雀戯」を出品すると、これが初入選する。以降、1923年の第10回院展から第17回院展まで作品を出品しており、「舞妓」、「帝国の装ひ」などの作品が入選を果たし、日本美術院の院友となった。その後、西山翠嶂の青甲社にうつり、再び官展のもとに戻った。1924年3月には本田渓花坊らにより『大大阪』という川柳雑誌の刊行が始まり、富麻呂は竹久夢二らとともに木版の表紙絵を載せている。また、この時期、美人画の新版画「しだれ桜」などを芸艸堂という版元から版行している。昭和初期に1925年には第1回聖徳太子奉讃美術展に出品の「春」が入選している。1926年第13回院展では「涼庭嬉戯」が入選、1933年の第14回帝展に出品した「おこしらへ」という作品が入選をし、2年後の1935年、京都市立絵画専門学校選科を卒業、同門の中村貞以らと親交を結んだ。翌1936年秋の文展鑑査展、第1回新文展において入選を重ねている。そして、この間、1930年の第2回聖徳太子奉讃美術展において「雪」、1940年の紀元二千六百年奉祝日本画大展において「南国の歌妓」が入選をしている。1941年から三度、新文展に入選している。 富麻呂は1931年に仏跡を訪ねて4ヶ月間インドを旅行しており、カルカッタ美術学校で個展を開催したほか、インドネシアのバリ島に写生旅行もしている。 第二次世界大戦後は1946年秋開催の第2回の日展から連続して入選を果たし、1954年の第10回日展の時から委嘱出品となった。1955年の第11回日展に出品の「かぐや姫誕生」が知られている。1962年には高島屋において個展「みほとけ展」を開催したほか、1969年の第54回院展において「潤」が入選をすると、再び院展に作品を出品、小松均に師事した。また、翌1970年の第55回院展には「バリ島の祈り」を出品した。その後、1979年には再び高島屋にて大西良慶・清水寺貫主をテーマに描いた個展「百寿説法展」などを開いている。富麿は早くから風俗美人画に取り組んでいたが、人物画において独自の境地を開拓、その対象を琉球、朝鮮、中国、インドおよびビルマに広げ、さらに古典文学にその題材を求め、晩年には主に仏画、高僧像などを描いている。1981年11月7日、京都市左京区の自宅で老衰により死去。享年83。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「樋口富麻呂」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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