|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 樋 : [とい, ひ] 【名詞】 1. water pipe 2. gutter 3. chute 4. trough ・ 笠 : [かさ] 【名詞】 1. (bamboo) hat 2. shade ・ 一 : [いち] 1. (num) one ・ 夫 : [おっと] 【名詞】 1. (hum) (my) husband
樋笠 一夫(ひがさ かずお、1920年3月20日 - 2007年6月17日)は、香川県坂出市出身のプロ野球選手(外野手)。 == 経歴 == 旧制高松中学時代に出場した1934年の第20回全国中等学校優勝野球大会ではベスト8まで進出するが、準々決勝で川上哲治を擁する熊本工に敗れた。中学卒業後は陸軍騎兵学校へ進んで〔人名録、書籍によっては「陸軍士官学校卒業」としているものもある〕職業軍人の道を歩み、陸軍中尉まで昇進した〔『巨人軍の男たち』149頁〕。 戦後はノンプロの広島鉄道局、三井鉱山美唄でプレーしたのち、地元・香川の尽誠学園高等学校で野球部監督を務める一方、社会・体育・珠算の教師も務めた〔『背番号の消えた人生』298頁〕。暮れに、広島カープ初代監督・石本秀一の命を受けた樋笠より2学年上の中山正嘉の勧誘を受ける。中山の「俺は32歳になるが、今度広島に出来る球団に入る。男は30歳で勝負だ」との言葉に動かされ、に広島へ入団する〔。新人ながらクリーンナップを打ち、打率こそ.219ながら、白石勝巳を1本上回る21本塁打に72打点でチーム二冠王となった。 当初は1年契約だったが、球団は樋笠の活躍を評価して契約更改第1号に指名するが、樋笠は広島を退団。地元に戻り、坂出市で友人と「樋笠しょうゆ製造業」の経営を始める〔『背番号の消えた人生』298頁〕。しかし、読売ジャイアンツから熱心な勧誘を受け、6月に入団する。この時、広島で地元ファンから「四番打者が広島を見捨てるのか」という反発が起きたことから、巨人は見返りとして石本秀一の秘蔵っ子であった〔『背番号への愛着』174頁〕山川武範を広島にトレードした。 当時の巨人外野陣は青田昇・与那嶺要・南村侑広らで充実していたことから樋笠は控えに回ることが多く、やがて代打の切り札として存在感を高めていく。には代打として31回起用され、26打数9安打の打率.346でリーグトップの代打成功率を収めている〔日本野球機構オフィシャルサイト 2013年度セントラルリーグ記録集 代打成績 〕。それでも、に青田昇が大洋ホエールズに移ると、若い岩本尭とレギュラーを争って外野手として100試合近くの出場を果たし、1953年は12本、1954年は11本と2年連続で二桁本塁打を記録した。その後は代打での出場が主となるが、3月には中日ドラゴンズの杉下茂から日本プロ野球史上初の代打逆転サヨナラ満塁本塁打を放ち、さらに4月には大阪タイガースの小山正明からシーズン2本目となる代打サヨナラ本塁打を打っている〔『1997 ベースボール・レコードブック』848頁〕。 1957年に現役を引退、その後は1958年にノンプロのヤシカ監督、1960年から1961年に近鉄バファローのコーチを務めた。のち、球界を離れて巨人球団代表の橋本道淳の紹介で第一広告社に入社し、1975年に定年退職するまで勤務する〔『背番号の消えた人生』301頁〕。1977年には東京都月島のイヌイ運送に入社し取締役総務部長を務める。得意先に出向くと必ず「あのホームラン」の話が出て、商談がスムーズに進んだという。 2007年6月17日死去。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「樋笠一夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|