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横尾 忠則(よこお ただのり、1936年6月27日 - )は、兵庫県西脇市生まれの美術家、グラフィックデザイナー。西脇市名誉市民。 幼少期に西脇でさまざまな超常現象を経験。死の世界に憧れを抱く〔横尾忠則『死の向こうへ』光文社 2008年11月20日初版〕。神戸新聞社にてグラフィックデザイナーとして活動後、独立。1980年7月にニューヨーク近代美術館にて開催されたピカソ展に衝撃を受け、その後、画家宣言。以来、美術家としてさまざまな作品制作に携わる。三島由紀夫に出会い三島の「聖俗一体」的言動に触発される。三島の死をきっかけにその後の15年間をオカルティズムや神秘主義まで包括した精神世界に傾斜してゆくが、それらが大いなる錯覚だったと気づき「私」の探求の延長線上で絵画に出会う。精神世界と絵画は全く別の存在だと考えていたが、後にこの両者が自分すら知らない深いところで結びついていると感じるに至る。。向田邦子脚本によるテレビドラマ『寺内貫太郎一家』(1974年・TBS)では、倉田という謎の多い人物を演じた。長女の横尾美美も美術家。 == 経歴 == *1936年 - 兵庫県多可郡西脇町(現在の西脇市)に成瀬光政とツヨの次男として生まれる〔『別冊太陽』平凡社 2013年9月23日発行〕。 *1939年 - 2-3歳の頃に、呉服商であった叔父の横尾誠起と輝恵夫妻の養子に入り、かわいがられて育つ。幼いころから絵本の模写をしていた。 *1941年 - 5歳にして「講談社の絵本」、石井滴水の『宮本武蔵』の巌流島の決闘を模写。画才を現す。 *1943年 - 西脇国民学校(現・西脇市立西脇小学校〔「横尾忠則さん、木造校舎保存を要望 母校・西脇小」(神戸新聞NEXT 2014/1/24 16:05記事) 〕)に入学。漫画を描くようになり『漫画少年』誌に投稿。 *1945年 - 9歳。1月より神戸の空襲が開始され3月と6月の空襲は被害が甚大であった。西脇は空襲を免れたものの、西脇から神戸や明石の空が赤く染まるのが見えた。 *1946年 - 母とともに大阪の鶴橋の闇市に米や織物を売りに行くが、大阪市内の空襲跡の風景に衝撃を受ける。 *1948年 - 『漫画少年』に漫画を毎月投稿。 *1949年 - 市立新制西脇中学に入学。 *1950年 - 南洋一郎、鈴木御水の『バルーバの冒険』、山川惣治の『少年王者』や江戸川乱歩の少年ものなどに熱中。 *1952年 - 16歳。兵庫県立西脇高等学校に入学。「郵便友の会」を作る。通信教育で挿絵を学び、油絵やポスター制作を開始する。高校学園祭のために、ポスターを初めてデザイン。エリザベス・テイラーにファンレターを送り返信があったことが地元紙で報じられる。朝鮮特需により西脇の繊維工業が活況。 *1954年 - 18歳。武蔵野美術学校出身の教師の影響で油絵を始め、県主催の絵画展などに相次ぎ入賞。 *1955年 - 武蔵野美術学校受験のために上京するが、前述の教師の助言もあり断念。西脇市織物祭のポスターが1等入選。郵便局員志望だったが、加古川の成文堂印刷所に入社。 *1956年 - 神戸新聞にカットを投稿していた常連5人にて神戸の喫茶店で個展を開催。そこで神戸新聞宣伝技術研究所にスカウトされ神戸新聞社へ入社。 *1957年 - 灘本唯人らのデザイングループ「NON」に参加。神戸新聞会館勤務だった谷泰江と結婚。 *1958年 - 22歳。第8回宣美展で奨励賞を受賞。会員に推挙される。 *1959年 - 23歳。神戸新聞社を退社。大阪のナショナル宣伝研究社に入社。 *1960年 - ナショナル宣伝研究社の東京の移転とともに上京。日本デザインセンターに入社。安保反対のデモの後でタクシーのドアで指をはさみ骨折。 *1961年 - 25歳。京都労音のポスターを制作する。 *1962年 - 26歳。大和証券DMのイラストでADC賞銀賞受賞。細江英公、寺山修司らと知り合う。 *1963年 - 27歳。東京ADC賞銅賞を受賞。 *1964年 - 長女誕生。ハイレッド・センターのシェルター計画に参加。宇野亜喜良、原田維夫と「スタジオ・イルフィル」結成(翌年、解散)。和田誠、篠山紀信らと東京オリンピック期間中にヨーロッパ旅行。 *1965年 - 吉田画廊の個展にて三島由紀夫と出会う。後に共に仕事をする。 *1967年 - 寺山修司の「天井棧敷」に参加。 ニューヨーク近代美術館に作品がパーマネントコレクションされる。 *1969年 - 主役として出演した大島渚監督の映画『新宿泥棒日記』が公開される。 *1970年 - 写真をはじめる。大阪万博でせんい館のパビリオンの建築デザインを担当。ロンドンを旅行。足の動脈血栓で入院、左足切断の危機を東洋医学で免れる。これを機に1-2年間の休業宣言。11月25日、三島由紀夫が自決。その3日前に横尾は三島に電話をしたが、その日は盾の会のメンバーと5人と、パレスホテルで自衛隊市ヶ谷駐屯地乱入のリハーサルを行っていた日であった。そうとは知らず横尾は「こんな雨の中、遅くまでごくろうさんです」といった。この電話では様々な話をしたが最後に三島は、「インドは死を学ぶところではない。むしろ生を学ぶところだよ。インドへ行けるものとそうでない者がいて、タイミングもある。君もそろそろインドへ行ってもいいな」といった。三島の死は横尾にインド行きを決意させる。 *1972年 - ニューヨーク近代美術館で個展を開催。 *1974年 - 篠山紀信とインド旅行。この後何度もインドを訪れるようになり精神世界に興味を深める。 *1981年 - 渋谷西武で大規模な個展。 *1982年 - 南天子画廊でペインティングの近作をまとめた個展。横尾忠則の「画家宣言」ととらえられた。画家としての活動が活発になっていく。 *1987年 - 兵庫県文化賞を受賞し、兵庫県公館に作品が展示保存される。 *1995年 - 毎日芸術賞受賞。 *2001年 - 紫綬褒章受章。 *2002年 - これまでで最大規模の個展「横尾忠則森羅万象」開催。多摩美術大学大学院教授に就任(2004年まで)。 *2004年 - 故郷のそばを走るJR加古川線電化開業、それにあわせ、ラッピング電車のデザインをし、同線で運行開始される。 *2004年 - この年から、多摩美術大学大学院客員教授(博士課程)に就任。 *2008年 - 初の小説集『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞受賞。 *2010年 - 神戸芸術工科大学大学院客員教授に就任。 *2011年 - 旭日小綬章受章〔海部元首相に桐花大綬章=旭日小綬章、浅丘ルリ子さん-春の叙勲 〕。 *2012年 - 常に時代と共振する斬新なグラフィックデザイン・絵画の制作により2011年度朝日賞受賞。 *2012年 - 11月3日 神戸市灘区に横尾忠則現代美術館開館。 *2013年 - 6月27日 西脇市名誉市民称号受章。 *2013年 - 7月 豊島横尾館開館。 *2014年 - 1937年(昭和12年)建造で昭和初期の面影を色濃く残し、2008年には兵庫県の景観形成重要建造物になった西脇市立西脇小学校の校舎が取り壊されるかも知れないという危機を知り、建替えに反対、保存改修による使用を強力に提案。ノスタルジーからではなく、市民の文化の高さを誇る象徴としての建造物が存在するということを自慢できる。市民一人ひとりが誇りを持っていただきたいと発言。教育の場の経済至上主義、物質主義に警鐘を鳴らした。同校舎は映画「火垂るの墓」「人間失格」のロケにも使われている〔〔神戸新聞NEXT「西脇小の保存を要望 横尾忠則さんのメッセージ全文」 2014/1/24 18:27 〕。その結果、校舎3棟の保存が決まった〔西脇小学校の木造校舎を想う会公式Facebook 〕。 *2015年 - 高松宮殿下記念世界文化賞絵画部門受賞。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「横尾忠則」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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