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上岡 龍太郎(かみおか りゅうたろう、1942年3月20日 - )は、日本の元漫才師、タレント、司会者である。本名、小林 龍太郎。旧芸名、横山 パンチ、伊井 パンチ〔「伊井パンチ」は命名者である香川登志緒が携わった演芸での出演時のみの芸名。〕。他、講談師旭堂 南蛇(なんじゃ)として高座に出演。また、落語立川流の門下でもあり、高座名・立川右太衛門を持つ。上岡劇団座長。二人兄妹の長男。血液型はAB型。 京都府京都市左京区黒谷町出身。2000年に芸能界を引退した。長男は映画監督の小林聖太郎。 == 経歴 == * 父親は高知県幡多郡下川口村大津の出身で京都帝国大学法学部を出た弁護士だった〔自著『上岡龍太郎かく語りき -私の上方芸能史-』筑摩書房、1995年、31-33頁〕。母親は宮崎県の出身で、上岡が小学4年生の時に乳癌のために早世した〔。 * 資産家で高学歴の出だった母は家事雑事を使用人に任せ、育児を子供の勉学に充てていた。母はあまり良い顔をしなかったが、龍太郎少年は香具師や芝居、歌舞伎や映画に熱中。この頃の将来の夢は芝居役者だった。 * 私立京都西高校(現・京都外大西高等学校)第一期生として卒業。高校在学中にロカビリーが流行し、その気に感化される。 * 「同じ落ちるのならレベルの高い大学を受験しよう」と立命館大学の入試に挑むが不合格 。これを境に以降、本格的に芸能の道を進むことになる。 * 京都西高校卒業後は京都でバンドボーイ、ジャズバンドの司会などを経験。軽やかな口跡が知られ、ハンサムな司会者〔当時はナイトクラブやロカビリー喫茶=ライブハウスには専属の司会者がいて司会の技術を競っていた。また、有名バンドだと専属の司会者がいて、共に行動するのが主流だった。〕として有名になる。 * 1959年 浜村淳に弟子入りを懇願したが断られ、浜村の紹介でロカビリーバンド「田川元祥&リズムワゴンボーイズ」に加入。 * 1960年 横山ノックの誘いにより、「横山パンチ」の名前で横山フック(初代。後に現在の青芝フックが2代目として加入)と共に漫画トリオを結成。 * 1968年 横山ノックの参議院議員選挙出馬により、漫画トリオ活動停止。以後、同時期に香川登枝緒によって命名された「伊井パンチ」と改名した後、自ら上岡龍太郎を名乗るようになるが、漫画トリオの停止当初はほとんど仕事が無く、「ホサれていた」時期として有名〔「食いつなぐため、作詞などの仕事も請けていた」(上岡曰く)〕。 * 1970年代、少しずつ近畿放送、朝日放送、ラジオ大阪といった関西圏の放送局でレギュラーを獲得。その一方で中部日本放送でもレギュラーを獲得し、関西圏と中京圏双方を拠点に活動する。 * 営業も自ら行い、レギュラーを獲得していったそのバイタリティが認められ、かつての相方のノックの誘いにより『ノックは無用!』『ラブアタック!』『花の新婚!カンピューター作戦』などで司会者を務め、関西・中京ローカルながら一軍のタレントに昇格する。長年、番組中や楽屋裏では「俺は絶対に東京に行かへん!」と語っていたが、1985年に『森田一義アワー 笑っていいとも!』のテレフォンショッキングに出演した後、それまで東京では忘れられていた元漫画トリオの横山パンチ=上岡龍太郎として認知され、往時のファンたちが各局のディレクターやプロデューサーに昇格していたことから、やがて東京でも数多くのレギュラー番組を獲得するに至る。 * 1987年 読売テレビ『鶴瓶上岡パペポTV』が放送を開始。同番組は翌年10月から日本テレビでも放送され、これが東京進出への決定打となる。 * 1988年 朝日放送『探偵!ナイトスクープ』が放送を開始。 * 1990年代には、上岡演劇祭なる小劇場系の演劇賞を主宰していた。 * 2000年4月 以前から放送で「俺は、芸能生活40周年を迎える2000年の春になったら完全に隠居する!」と公約していた通りに芸能界を引退。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「上岡龍太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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