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横山 久太郎(よこやま きゅうたろう、安政3年10月10日(1856年11月7日) - 大正11年(1922年)3月3日)は、明治、大正期の日本の実業家。 == 生涯 == 遠江国山名郡久努村(現在の静岡県袋井市)大字村松の農家、横山源七郎とゆみの間に生まれる。 9歳で父を亡くし、12歳で同郡中泉村の鉄物商山田孫次郎商店に入る。ここでおよそ9年間働いたのち東京へ向かい、同郷の鉄屋・田中長兵衛の店で働き始めた。久太郎の勤勉さは長兵衛に認められ、明治11年(1887年)には神奈川県横須賀支店の支配人に取立てられる。久太郎はここ横須賀で造船材料の輸入などをやっていた際、日本国内での製鉄の重要性を大いに感じている。 岩手県釜石にて日本初の官営製鉄所が失敗に終わったのち、学者も技術者も揃って無理だと主張していた再建に、民間の一商人の身ながら田中長兵衛が乗り出したのは、横山久太郎の熱意と繰り返しの嘆願があったからこそだという。久太郎は総責任者に任命され、釜石に向かった。 2年弱にわたる度重なる失敗と苦闘を乗り越え、高橋亦助を始めとした現場の尽力もあり、明治19年(1886年)10月16日、49回目の挑戦でついに銑鉄の生産に成功すると、釜石鉱山田中製鉄所(現新日鐵住金釜石製鐵所)設立後はその初代所長の任を受け、日本の近代製鉄の基礎を固めた。製鉄に力を注ぐ傍ら、明治41年(1908年)には当時物流上孤立していた三陸沿岸地方での三陸汽船の立ち上げに伴い、その社長職も務める。 明治29年(1896年)6月15日、いわゆる明治三陸地震による巨大津波が三陸海岸を襲った。各所で軒並み10m以上、場所によっては海抜45m地点まで到達したとも言われる大津波の前に多くの家屋が倒壊。釜石製鉄所でも甚大な被害が出たが、所長である久太郎の指示により工場を開放し炊き出しが行われたと伝わる。 明治34年(1901年)に田中長兵衛が亡くなり、その息子安太郎が長兵衛の名と社長職を継いだ後も、釜石を守り2代目を盛り立てた。生活は質素で現場を重んじ、体調を崩した後も「釜石の土になる」が口癖だったが、大正11年(1922年)3月、療養していた東京浅間台の別邸にて死去。享年67。現新日鉄の釜石製鉄所敷地内には横山久太郎〔『横山久太郎翁伝』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕と田中長兵衛〔『横山久太郎翁伝』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕の像が今も〔2008年9月現在。〕並び立っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「横山久太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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