|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 横 : [よこ] 【名詞】 1. beside 2. side 3. width ・ 山 : [やま] 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point ・ 保 : [ほ] 1. (n,vs) guarantee
横山 保(よこやま たもつ、1909年(明治42年)8月11日 - 1981年(昭和56年)3月)は、日本の海軍軍人、航空自衛官。海兵59期。最終階級は海軍で中佐、空自で空将補。 == 経歴 == 1909年8月11日、神奈川県横須賀市で海軍軍人の次男として生まれる。横須賀中学校を経て、1928年4月、海軍兵学校に59期生として入校。1931年11月7日兵学校を卒業。1934年11月、第26期飛行学生拝命。1935年7月、同課程修了、戦闘機搭乗員となる。1936年11月、佐伯空。 1937年2月、大分空分隊長。7月、支那事変の勃発に伴い、十三空分隊長着任。哨戒任務を行う。9月19日、敵機との初戦闘。不確実1機撃墜。1940年6月、横須賀空付。実験中の十二試艦上戦闘機(零戦)で一個分隊を編成し、できるだけ早く中支戦線の漢口基地に進出せよという命令を受けてマニュアルの作成から担当した〔吉田俊雄『指揮官たちの太平洋戦争』光人社NF文庫79頁〕。7月、十二空分隊長。十二試艦戦は慣熟飛行で不具合も多く、漢口進出の催促を受けたが、トラブルの未解決を力説し、機体と発動機の担当者を同行して横山以下6機が7月中旬に進出。横山によれば、現地司令部の山口多聞、大西瀧治郎から十二試による敵本拠地の敵戦闘機撃滅を命じられた際に、機体の問題が解決するまでの猶予を求め、「貴様は命が惜しいのか」と急き立てられたが、「今から考えてみるとこの私の抵抗が零戦の立派な誕生をもたらしたものといささか自負している」という〔吉田俊雄『指揮官たちの太平洋戦争』光人社NF文庫80-82頁〕。 1941年8月、三空飛行隊長兼分隊長。12月、太平洋戦争勃発。開戦時はフィリピン空襲に参加。最初は空母を使用する作戦だったが、横山は日中戦争で零戦が遠距離空襲に成功した経験から台湾から出撃が可能であり、着艦訓練の余裕もないので空母の使用をやめるように上申して採用された〔『証言 真珠湾攻撃』光人社124頁〕。1942年4月、大分空飛行隊長。1943年4月二〇四空飛行隊長。5月、第十一航空艦隊参謀。9月、26航戦参謀。1944年3月、横須賀空付。6月筑波空飛行長。1945年5月、二〇三空飛行長。 1945年8月、築城基地で終戦を迎える。 1954年、航空自衛隊発足と同時に入隊。第1航空団副司令、中部航空方面隊司令部幕僚長、第7航空団司令を歴任。1964年、退職。1981年3月、死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「横山保」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|