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横山 剣(よこやま けん、本名:横山 正佳(よこやま まさよし)、1960年7月7日 -(本当の誕生日は7月6日)は、日本の歌手、作曲家、プロデューサー。クレイジーケンバンドのボーカルであり、レコード会社「ダブルジョイレコーズ」の代表取締役である。自称東洋一のサウンドクリエイター、通称“crazyken”。横浜市在住。 ==プロフィール== ===生い立ち=== 神奈川県横浜市(中区)で生まれる。赤ん坊の頃は本郷町だが、物心つく頃には本牧に移り〔1982年に返還されるまで在日米軍施設「横浜海浜住宅地区」があった本牧という場所には非常にこだわっている。〕、そこで幼年期を過ごす。母親の離婚・再婚等もあり、小学生時代は日吉付近、中学生時代は横浜ドリームランド付近と、横浜市内を転々と引っ越して過ごす。本牧から日吉へ引っ越した時にプリンス幼稚園に入園、ある園児の父親が乗ってきたプリンススカイライン2000GTに魅せられる。同じクラスの女の子がコンテッサ1300クーペで送迎されておりある時その子の母親にその車で友達数人とこどもの国へ遊びに連れて行ってもらったのが嬉しかったらしい。 幼少期からジャズやボサノヴァなどの音楽に親しむ一方で、5代目三遊亭圓楽が語るアルバム『円楽のプレイボーイ講座12章(演奏:前田憲男とプレイボーイズ)〔2001年のCD化の際は横山が解説を執筆した〕』に多大な影響を受ける。5歳の時に本牧でアメリカ人が乗るアイボリーのムスタングに衝撃を受ける。 小学2年生の時に、腎炎と自律神経失調症を併発し、駒沢にある国立東京第二病院(現在の国立病院機構東京医療センター)に入院。見舞いに来た母親が自由が丘の玩具店で購入して来たミニカーの一台目がBMWであり、一目見てなにかを強く感じる。小学生時代から「頭の中で鳴る音楽」をもとに、作曲を始め(「筒美京平みたいになること」を目標としていた)。芝浦や港北のヤナセに行くのが好きだった。 音楽の道を真剣に志したのは小学6年生の時〔「横山剣インタビュー」週刊現代 2013年6月1日 pp.189-196〕〔#スタンダード、pp.190-194〕。当時好んで聴いていたチューリップが出演する慶応大学のイベント(神田共立講堂)に足を運んだ際、生涯憧れるバンドに出会う〔〔。プログラムにないキャロルが、ポマードべったりの頭に上下革製のライダースで登場、見事なアンサンブルと腰のあるサウンドに大きな衝撃を受けた〔〔。矢沢永吉が龍に見えて、あっさりキャロルに頭が塗り替えられたという〔。 横浜市立大正中学校時代からはバンド活動にもいそしむ(この頃、“横山火呂死(ヒロシ)”と名乗っていた)。 また、すでに母親と離婚していた実父とともにロサンゼルスやホノルルなどを訪れ、後の作詞、作曲活動に大きな影響を受ける。 ある夏休みに江ノ電を鵠沼駅で降りて海に行く途中に見かけた家のガレージに止まっていたメルセデス・ベンツ280SE3.5クーペに惹かれる。音楽活動だけでなく、チョッパーの自転車暴走族『毒ガス』を率いていた事もあり、神奈川県大和市にあったレーシングショップ『ピットローブ』に足しげく通っていた。 中学卒業後は、「卒業後、音楽関係の職業を紹介してくれるかも」と考え、「芸能コース」がある堀越学園高校の「一般コース」に進むが、芸能コースは制作部門とは全く関係がなく特にそのようなメリットがないことを知り、1年生のうちに中退。定時制高校を転々としながら〔、以降はバイトと、不良青年活動、デモテープを作ってレコード会社に片っ端から持ち込む、といった日々を送る。 サンフランシスコに住んでいる友人のもとに遊びに行ったところ、センスの良い古着が捨て値で売っていたので大量に買い付けし、横浜周辺で古着の商売を始める。その後、原宿に商売の「遠征」にでかけ、たまたま寄った所がクールスRCのリーダー佐藤秀光が経営している衣服店であった。その店のスタッフが「友人の友人」だったことから、クールスのメンバーの面識を得る。18歳頃からクールスのバンドのスタッフを務める。佐藤秀光の店の『チョッパー』で働きもした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「横山剣」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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