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横山松三郎 : ミニ英和和英辞書
横山松三郎[よこやま まつさぶろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [よこ]
 【名詞】 1. beside 2. side 3. width 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [まつ]
 【名詞】 1. (1) pine tree 2. (2) highest (of a three-tier ranking system) 
: [み]
  1. (num) three 

横山松三郎 : ウィキペディア日本語版
横山松三郎[よこやま まつさぶろう]

横山 松三郎(よこやま まつさぶろう、1838年11月26日天保9年10月10日) - 1884年明治17年)10月15日)は、幕末・明治初期の写真家、洋画家。別名・文六(三代目)。城郭、社寺などの写真が、重要文化財として残っている。
== 生涯 ==
択捉島に生まれた。祖父・文六(初代)と父・文六(二代)は、高田屋嘉兵衛および金兵衛に仕え、冬期を除き、箱館から択捉島に出向いて場所支配人として漁場を管理していた。1833年(天保4年)に高田屋が闕所処分を受けた後、松前藩の場所請負人制となった択捉島で引き続き支配人を務めた。松太郎は5人兄弟の長男で、姉2人、妹・三代〔高田屋嘉兵衛の子孫・高田篤太郎(高田屋四代目)に嫁ぐ。 桑嶋(1979)〕、弟・松蔵〔函館で写真館を経営。晩年は高田家に寄寓する。 桑嶋(1979)〕がいた。
1848年嘉永元年)、父が没し、家族とともに箱館に帰る。1852年(嘉永5年)、箱館の呉服屋で奉公する。画を好み、夜分葛飾北斎の漫画を写した。2年後肺を病んで家に戻り、療養する。肺患が生涯の持病であった。
1854年(嘉永7年)、ペリーの米艦隊が箱館に上陸したときに、初めて写真を知る。1855年安政2年)商店を開いたが、病気のため2年後に畳んだ。この頃、写真機の製作を試みている。
1857年(安政4年)、病気回復祈願のため、津軽に渡り、江戸・京阪を経て四国の讃岐神社、木曽を通り善光寺日光を巡る〔千代(1990)〕。
1859年(安政6年)、箱館が自由貿易港となって米・露・英人が住むようになり、彼らから洋画・写真術を学びあるいは盗み見る機会が増えた。ロシア領事のヨシフ・ゴシケーヴィチから昆虫の実写画を頼まれ、その代わりに写真術を学んだ。1861年文久元年)、ロシア領事館の神父・ニコライを通じて、ロシア人通信員レーマンの助手となり、洋画を学ぶ〔。
1862年(文久2年)(24歳)、箱館奉行所の香港バタヴィア行貿易船「健順丸」に商品掛手附として乗り込み、海外で写真を学ぼうとしたが、一旦は品川港で渡航中止となった。しかし、1864年元治元年)に今度は上海へ渡航でき、約1ヶ月半滞在して師となる人物を見つけることはできなかったものの欧米の洋画・写真を見聞した。帰国後、横浜下岡蓮杖に印画法を教わり、箱館に帰った〔。
1865年(元治2・慶応元)(27歳)、再び上京し下岡蓮杖に写真と石版術を教わった。箱館に戻り、木津幸吉田本研造に印画法を教える〔。
1868年(明治元)(30歳)、下岡に更に石版印刷を学んだのち、江戸両国元坊に写真館を開き、すぐに上野池之端に移って「通天楼」と称した。横山はここで多くの肖像写真を撮影し、宮下欽片岡如松など後進の写真家も育てている。箱館戦争が勃発して、現地の母を見舞った。1869年(明治2年)門人たちと共に日光山に赴き、中禅寺湖華厳滝日光東照宮など数多くの写真を撮影した。
1871年(明治4年)(33歳)、3月、蜷川式胤の依頼で、同じく写真家の内田九一と共に荒れた江戸城を撮影する。その写真の一部は洋画家・高橋由一によって彩色され、翌年蜷川により、『旧江戸城写真帖』計64枚に編集された。1872年、湯島聖堂大成殿で文部省博物局が3月 - 4月一杯催した日本初の博覧会を、撮影した〔東京国立博物館の歴史 〕。5月から10月まで、町田久成、蜷川式胤らが、伊勢・名古屋・奈良・京都の、古社寺・華族正倉院の宝物を調査した『壬申検査』に、同行した〔東京国立博物館 壬申検査 120年前の文化財調査 〕。
1873年(明治6年)(35歳)、通天楼に洋画塾を併設し、ここで亀井至一亀井竹二郎本田忠保らを育てた。1874年、漆紙写真と光沢写真を作った。1876年、通天楼を譲渡して陸軍士官学校教官となり、フランス人教官アベル・ゲリノー(Abel Guérineau)から石版法や墨写真法などを教わり、研究した。1877年、電気版写真を完成し、当時日本で殆ど知られていなかったゴム印画やカーボン印画、サイノアタイプなど19世紀半ば欧州で発明された写真技法を、日本で先駆的に取り入れている。
1878年(明治11年)(40歳)、士官学校の軽気球から日本初の空中写真を撮った。蜷川式胤が、松三郎の写真を編『観古図絵城郭之部』を刊行し、翌年京都の洋画展に油絵を出品した。1880年(明治13年)頃、横山は長年の研究の成果から、「写真油絵」法を完成させる。これは印画紙表面の感光乳剤層を薄く剥がし、裏から油絵具で着彩するという繊細で高い技術を要するものである。横山の写真・油彩・スケッチなどに共通する特徴として、物そのものを捉えようとする写実の重視が挙げられ(この姿勢は高橋由一ら多くの洋画家・写真家に共通する)、横山は自分が発明した写真油絵技法で、自己が理想とする写実表現を求めた。反面、研究に没頭するあまり、次第に「通天楼」の仕事からは遠ざかっていったようだ。
1881年(明治14年)、肺病再発のため、陸軍士官学校を辞し、『写真石版社』を銀座に開いた。
1884年(明治17年)(46歳)、市谷亀岡八幡宮社内の隠居所に没した。戒名「温良院実参霊性居士」。墓は函館の高龍寺にある。そのほか弟子により、高輪泉岳寺に遺髪が埋められ、山門左脇に「横山君墓名碑」が建てられている〔桑嶋(1979)〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「横山松三郎」の詳細全文を読む




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