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横山 清暉(よこやま せいき、寛政4年(1792年) - 元治元年(1864年)は、日本の江戸時代末期に活躍した四条派の絵師。松村景文の弟子で、中島来章、岸連山、塩川文麟らと共に、幕末画壇の「平安四名家」と評された。 == 略伝 == 京都出身。名は清暉または暉三、字は成文、通称は主馬・詳介、号は霞城、吾岳、奇文。初め呉春、ついで松村景文に学んだ。景文没後の誓約書では筆頭に署名があり、景文の一番弟子だったと目される。文政度の東本願寺再建においては白書院の杉戸絵を担当、文政12年(1829年)には祇園祭長刀鉾の軒下絵《百鳥図》の彩色を任された。こうした働きが認められてか、青蓮院尊超入道親王のお抱え絵師となる。幕末期には平安四名家と謳われ、画壇の取りまとめ役として様々な書画展館に際して主催者の重責を担った。『平安人物志』では文政13年(1830年)から嘉永5年(1852年)版まで登場。住所は六角室町東、新町四条北。生前の評価は非常に高く、嘉永3年(1850年)の『帝京画家給銀位定』では970両の<大上上吉>、『平安画家評判記』では980両の<極上上吉>と記されている。ただ、晩年の作品には衰えが目立つとされている。享年73。墓所は、左京区の本妙寺。 弟子に、横山春暉、村瀬双石、岡島清曠、林耕雲、有山旭峰、島田雪谷、奥村石蘭など。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「横山清暉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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