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横山 謙三(よこやま けんぞう、1943年1月21日 - )は、埼玉県浦和市(現さいたま市)出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはゴールキーパー。現日本オリンピアンズ協会理事。日本代表監督時代は兼三と名乗っていた〔後藤健生『日本サッカー史・日本代表の90年』双葉社、2007年、252頁〕〔日本サッカー協会公式サイト では代表監督時代についても謙三で統一されている。〕が後に元の謙三に戻した。 == 来歴 == 東京神田の生まれ、浦和市立常盤小学校出身。埼玉県立川口高等学校3年時の1961年にゴールキーパーに転向。渡辺正のいた立教大学(社会学部)に進学し〔第5回 横山謙三さんインタビュー03 - NPO法人 日本オリンピアンズ協会 〕、卒業後、JSLの三菱重工(現・浦和レッドダイヤモンズ)に入団した。JSLでは通算136試合出場、日本代表では国際Aマッチ37試合出場の記録を残した。1964年の東京オリンピックではアルゼンチンを破る大金星に貢献、1968年のメキシコシティオリンピックでも三位決定戦でPKをセーブするなど活躍し、そこでの銅メダル獲得にも貢献した。三菱重工では1学年後輩(生年は同じ)の森孝慈と共に1969年の初優勝に貢献した。 1976年から三菱重工の監督に就任、1978年には日本サッカーリーグ、JSLカップ、天皇杯と当時の3冠を全て制覇した。この年から三菱のユニフォームは青から赤に変わり、これは今の浦和レッズにも受け継がれている。 1988年からは日本代表の監督に就任。当時の世界最先端である3-5-2システムを採用し、ウイングバック(両サイドのMF)を攻撃の基点とする戦術を採ったが、ワールドカップイタリア大会アジア予選は1次予選敗退という結果となった。前回大会を下回る結果にサッカーファンの不満が高まり、ファンによる解任署名運動やスタジアムにおける解任を要求する横断幕の掲示が行われたが、その地位に留まり続けた。その後、総監督としてU-23代表を率い1992年3月のバルセロナ五輪アジア最終予選に挑むが惨敗を喫し、遂に辞任する結果となった。 就任当初はベテラン選手を外し井原正巳や柱谷哲二といった若手選手を積極的に起用したが思うような結果を残せず、イタリアW杯予選敗退を境にそれまでの方針を覆し三浦知良、ラモス瑠偉、北澤豪らの読売クラブ出身の選手を登用し、1991年6月のキリンカップにおいて初優勝に導いた。また、この時期は唯一「日の丸」の赤を基調としたユニフォームを着用していたことでも知られる。〔その後、2012年前後に女子のなでしこジャパンがサードユニとして赤を用いたことがあった。〕 またこの時期からユニホームエンブレムを日の丸から八咫烏を本格的に使用して現在に引き継がれている。 1994年に森孝慈の後任として浦和レッドダイヤモンズの監督に就任した。低迷するクラブの再建を一任されたが果たす事は出来ず、代表監督時代同様にサポーターからの激しい非難を浴び、このシーズン限りで辞任した。 1995年からは浦和レッズのゼネラルマネージャーに就任。影でクラブを支え続けたが、1999年にクラブはJ2に降格。1年間でJ1復帰を掲げたがシーズン終盤の2000年10月に成績不振からクラブのJ1復帰が危うくなると斉藤和夫監督に代わり、自らが総監督として指揮を執り、最終節の勝利によって辛うじてJ1復帰を実現させた。 2002年からは森にゼネラルマネージャーの地位を譲り、強化担当からは離れ株式会社三菱自動車フットボールクラブの取締役として地域活動の強化にあたった。2006年6月で退任し、財団法人埼玉県サッカー協会専務理事に就任した。 2006年、第3回日本サッカー殿堂入りをした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「横山謙三」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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