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横浜 一庵(よこはま いちあん、天文19年(1550年) - 文禄5年閏7月13日(1596年9月5日))は、安土桃山時代の大名。剃髪した天正17年7月以降には別名の「大蔵卿法印」も使用されており、別字の「一晏」もこの頃から使用された〔播磨良紀「一晏法印なる人物について」1986年3月(『和歌山市史研究 14』)〕。 俗名は「良慶」(誤伝で「光慶」と表記される場合もある)。「正勝」とも。父親の名前は四郎三郎と伝わり、天正19年1月9日に喧嘩で死去した。室は藤堂高虎の6女(養女)。娘の一人が高虎の外孫の半井成近の室となり、またもう一人が小堀正次の側室となり正春を産んでいる。 豊臣秀長と秀保に仕え、史料には秀長の大和入国以降に名が見られるようになる。羽田長門守(正親)、小川下野守とともに秀長の三家老として内政を担当し、大和国内で5万石を領した。天正13年(1585年)3月21日に鍬初めが行われた和歌山城の普請奉行を藤堂高虎・羽田正親とともに勤めた。春日大社の石垣補修などの普請奉行にも名が見られ、また秀長と興福寺の取次的な役割を担っていた。天正15年(1587年)の九州平定では裏方として在国で留守を預かった。秀長領における内政は一庵と小堀正次の両名を頂点として運営されており、天正19年(1591年)には小堀と連名で法広寺大仏殿の造営に2,500石を出している。秀長の没後は、僅か13歳の養嗣子・秀保にも小堀正次と共に続けて仕え、文禄の役で秀保が出陣したときも留守を預かり、しばしば京・伏見へ出張しており、文禄2年(1593年)閏9月23日には秀吉の茶会に参加した。文禄3年(1594年)4月、秀保がにわかに没して豊臣大納言家は断絶した。その後は郡山を拝領した増田長盛には仕えず、豊臣秀吉の直参となり、慶長元年(1596年)の慶長伏見地震で圧死した。横浜茂勝は、息子といわれている〔寺沢光世「大和郡山城代横浜一庵について」1991年(『歴史手帖19-3』)〕。 郡山城本丸に属する「常盤曲輪」は、一庵がここに屋敷を与えられたので、「本丸法印曲輪」といわれていたが、江戸時代に柳沢氏が藩主になった時に改称された。梅林門も一庵丸門と称したが、改名された。 == 脚注 == 〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「横浜一庵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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