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横浜市中心部の廃河川 : ミニ英和和英辞書
横浜市中心部の廃河川[よこはまし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [よこ]
 【名詞】 1. beside 2. side 3. width 
: [はま]
 【名詞】 1. beach 2. seashore 
: [し]
  1. (n-suf) city 
市中 : [しちゅう]
 【名詞】 1. in the city 
: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
中心 : [ちゅうしん]
 【名詞】 1. (1) center 2. centre 3. middle 4. heart 5. pivot 6. emphasis 7. balance 8. (2) core 9. focus 
中心部 : [ちゅうしんぶ]
 【名詞】 1. central part 2. heart (of a city)
: [こころ, しん]
 【名詞】 1. core 2. heart 3. wick 4. marrow 
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
河川 : [かせん]
 【名詞】 1. rivers 
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 

横浜市中心部の廃河川 : ウィキペディア日本語版
横浜市中心部の廃河川[よこはまし]
横浜市中心部の廃河川(よこはましちゅうしんぶのはいかせん)。現在の神奈川県横浜市中区から南区にかけての横浜市役所伊勢佐木町吉野町などに相当する一帯は、江戸時代初期まで大岡川河口の入り江や沼地であった。江戸時代に行われた吉田新田太田屋新田の新田開拓、およびその後に市街地化された際に水路網が造られ、河川舟運排水路に利用されてきた。1932年に発行された『横浜復興誌』によると、当時の横浜市内の河川・運河の総延長は約54km、年間航行船舶は延べ七万五千隻を数えたが〔『なか区歴史の散歩道』p134-135 川と運河のマチ横浜〕、水運の衰退や都市交通網の再整備のため、外周にあたる大岡川中村川・堀川と、根岸湾に至る堀割川を残して1977年までに埋め立てられた。本項では、これら大岡川水系の廃河川を中心に述べる。
== 河川網の形成 ==
現在の大岡川中村川首都高速道路神奈川1号横羽線で囲まれた、東西に長い釣鐘状の土地は江戸時代初期まで入り江で、宗閑嶋(洲干嶋とも)と呼ばれる半島状の砂州が南側(今の元町付近)から伸びていた。この入り江では、1656年明暦2年)から1667年寛文7年)にかけて吉田勘兵衛により新田開発がおこなわれ、吉田新田となった。宗閑嶋の入り江側に沿った沼地では、1850年嘉永3年)から1856年安政3年)にかけて、太田敬明により太田屋新田が開発された。
吉田新田と北側の野毛方面の岸を隔てる川は現在の大岡川、同様に南側は中村川に相当し、吉田新田と太田屋新田との間はのちの派大岡川(は おおおかがわ)となる。新田内には、大岡川河口付近から東西に貫く中川が設けられた〔『川の町横浜』 p2-3〕。中川には、水田に真水を流して海水の塩分を除去する役割があった〔西区の埋め立てをさぐる(解説) (横浜自然史博物館.Virtual)〕。1859年に、新田と宗閑嶋との間に吉田橋野毛との間に野毛橋(現在の都橋)が架けられた。1860年万延元年)、太田屋新田や宗閑嶋に設けられた外国人居留地に住む外国人と日本人との衝突を避けるため、半島の付け根に堀川を通し、谷戸橋、前田橋、西之橋の3つの橋を架けて関所とした。この関所の内側が関内である。また、この頃から関内の人口が急増し、新田を順次埋め立てて市街地が形成された。1870年明治3年)から1874年にかけて、吉田勘兵衛の子孫らにより、中村川から分かれて根岸湾に至る堀割川が造られたが、この時に丘陵を拓いた土砂も南一つ目沼(現在の中区吉浜町松影町寿町翁町扇町不老町万代町蓬莱町付近)の埋め立てに使われた。1874年の地図には、阪東橋付近から東側の中川を踏襲した吉田川(よしだがわ)と、これと交わる富士見川(ふじみがわ)、日ノ出川(ひのでがわ)が記されており、吉田川と中村川を結ぶ川も、案として記載されている〔『川の町横浜』 p8〕。この案に沿い、1893年に実業家の伏島近蔵は8万円の私費を投じ、中村川と堀割川の分流点付近から吉田川につなぐ新吉田川(しんよしだがわ)を着工し、1896年に完成させた。翌年には、新吉田川と大岡川を結ぶ新富士見川(しんふじみがわ)を完成させ、関内寄りの富士見川を埋め立てた〔『川の町横浜』 p34-37〕。堀割川から中村川・堀川・派大岡川にかけてへは、三浦半島から横浜港への和船が頻繁に往来し〔、吉田川も建築資材や石炭、日用品などの運搬に利用された反面、日ノ出川や富士見川は主として排水の役割を持ち、舟の往来は比較的少なかった〔『なか区歴史の散歩道』p184-185 失われた川と運河〕。
太田屋新田には、現在の港町1丁目から相生町太田町の間を通り大岡川に注ぐ悪水堀が造られ〔『川の町横浜』 p8〕、1871年小松川(こまつがわ)と命名された。この小川は悪臭のため、1872年高島嘉右衛門により埋め立てられた。
現在の野毛町から花咲町にかけては野毛浦と呼ばれる切り立った崖であり、このため東海道と横浜港を結ぶ横浜道も海沿いを避けて通された。新橋駅-横浜駅(現在の桜木町駅)間の鉄道敷設にあたり、1870年に野毛浦の先を、1本の水路を残して鉄道用地として埋め立てられた。この水路には紅葉橋、錦橋、瓦斯橋、雪見橋、花咲橋が架けられ、1871年に桜木川(のちに桜川(さくらがわ)に名称変更)と命名された〔『中区史 第5章・野毛地区』p472-477〕。瓦斯橋の名称は、現在の横浜市立本町小学校の位置にあった都市ガス工場に由来する。
1923年9月1日に発生した関東大震災では、中村川・堀川・大岡川・吉田川の両岸と堀割川右岸が崩壊し、橋の多くも焼失・落橋した。政府の復興計画では三浦半島や房総半島から横浜への輸送路である堀割川・中村川・堀川の国費による改修が予定されたが、大岡川・帷子川流域の工業化を推進しようとした市は、両川の改修を国の事業として進めることを国に請願した。その結果、堀割川・中村川・堀川・吉田川を市、大岡川・帷子川を国が改修することとなり、護岸のコンクリート化や浚渫が行われた〔『川の町横浜』p22-23〕。新設・改築された橋梁は市内全体で178本(国施工37本、市施工141本)にのぼり、この時に立てられた橋の親柱にはさまざまな意匠が凝らされた〔『川の町横浜』p22,25〕。復興局では日ノ出川を埋め立てて公園とする提案がなされ、地元住民もこれに賛同したが河川を利用する材木問屋回漕業者の反対があった。この時の埋め立ては見送られ〔『川の町横浜』p24〕、1953年4月から1956年にかけての埋立事業まで存続した。桜川は第二次世界大戦後の1948年10月より埋立に着手され1954年に完了した〔『川の町横浜』p48 巻末年表〕。1959年に着工した国鉄根岸線は、大岡川との交差付近から石川町駅近くの吉浜橋付近にかけて、派大岡川に橋脚を建てた高架構造で建設され、1964年にこの区間を含む桜木町駅-磯子駅間が開通した。橋脚の基礎は岩盤に到達しておらず、ペデスタル杭が採用された〔。この頃から河川の流通機能は衰退し、廃船となり放置されたが問題となった〔『川の町横浜』p26-29〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「横浜市中心部の廃河川」の詳細全文を読む




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