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堤 清二(つつみ せいじ、1927年3月30日 - 2013年11月25日)は、日本の実業家、小説家、詩人。学位は博士(経済学)(中央大学・1996年)。筆名は辻井 喬(つじい たかし)、横瀬 郁夫(よこせ いくお)。日本芸術院会員、財団法人セゾン文化財団理事長、社団法人日本文藝家協会副理事長、社団法人日本ペンクラブ理事、『歴程』同人、憲法再生フォーラム共同代表、日本中国文化交流協会会長。グスタフ・マーラーにも造詣が深い〔雑談(82)音楽よろず話(14)マーラー生誕150年と中国 2010年11月1日 早稲田大学 水島朝穂 〕。 西武流通グループ代表、セゾングループ代表などを歴任した。弟は元西武鉄道会長の堤義明。 本稿では編集の都合上、「実業家:堤清二」と「小説家・詩人:辻井喬」の両者としての経歴を包括している。 == 経歴 == 1927年、西武グループの創業者堤康次郎と、康次郎の妾(後に本妻)・青山操の間に生まれる〔戸籍上は婚姻準正。「わが堤一族、血の秘密」(『文藝春秋』昭和六十二年八月号)は、青山操の姉の子であるとの証言を掲載している。〕。青山は当時康次郎と内縁関係にあったが(のち入籍)、康次郎は5人の女性との間に5男2女を持つ。この事は父への反抗につながり、日本共産党入党や文学への傾倒へのきっかけとなっていく。また「父との確執と、父への理解」は、「小説家・辻井喬」を貫くテーマともなっている。 国立学園小学校、東京府立第十中学校(現東京都立西高等学校)を経て成城高等学校 (旧制)(現成城大学)に進学すると、寺内大吉に兄事し、後に「近代説話」の同人となる。東京大学経済学部入学直後、同級生だった氏家齊一郎などから勧誘を受け日本共産党に入党。横瀬郁夫のペンネームで積極的な活動を行っていた。 1950年、内外の混乱により共産党が所感派・国際派へと分裂するなか、国際派の東大細胞に属し、党中央から除名される〔ただし完全に同党とは決別した氏家とは異なり、被除名者との関わりを断つ日本共産党の中ではかなり希有な存在として堤は晩年まで友好的な関係を維持していた。一例として、2010年の第22回参議院議員通常選挙の前に同党公認候補だった小池晃参議院議員との対談を共産党機関紙の『しんぶん赤旗』紙上で行った事が挙げられる。〕。この頃、自ら父に勘当を願い出ているが、それは康次郎に対する清二の「絶縁宣言」と言うべきものだった。 1951年東京大学経済学部卒業。その後、肺結核の療養を経て、衆議院議長だった父・康次郎の秘書を務める。この頃から詩を書き始める。1954年に西武百貨店に入社。1955年から取締役店長として百貨店を任される。同年、処女詩集『不確かな朝』を発表。1961年刊行の詩集『異邦人』で室生犀星詩人賞受賞。 1964年、康次郎が死去。周囲からは清二が継承すると思われていた西武グループ総帥の座は、異母弟の堤義明が継ぐことになる。このような変動の下で、処女小説『彷徨の季節の中で』(1969年)は書き上げられた。清二は、作家の三島由紀夫とも交友を持ち、三島が自身の組織した「楯の会」の制服を制作するにあたっては、五十嵐九十九(ドコールの制服のデザイナー)を手配するなどの便宜をはかった〔『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)〕。なお、1970年(昭和45年)11月25日の三島事件直後に開かれた三島の追悼会には、ポケットマネーから資金を提供した他、三島映画上映企画などでも会場を提供するなど、三島の死後も貢献し続けた〔『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会メルマガ会報 2013年11月29日号)〕。 康次郎死去後の清二は当時阪急百貨店会長・清水雅の宝塚市にある自邸に行き、清水より経営手法などを学ぶ。スーパーマーケットである西友を急展開し、業績を拡大。1969年、池袋西武の隣にあった百貨店「東京丸物」(まるぶつ)を、買収したばかりの小佐野賢治からさらに買収する形で経営を引き受け、府立十中の同級生だった増田通二を使いパルコにリニューアルし、さらにパルコを全国に展開。ちなみに渋谷の「公園通り」の名前はイタリア語で公園を意味するパルコの名前からとったものである。また西武百貨店は渋谷に進出させ成功を収めると、積極的な出店攻勢と「感性経営」と言われる優れた演出戦略が奏功し、清二が入社当時は二流、三流と言われた西武百貨店を1980年後半には当時百貨店売上高首位の三越を抜き、日本一の百貨店になるまで成長させた。さらにデベロッパーである西洋環境開発を通じ、世界一のホテルチェーンであるインターコンチネンタルホテルズグループを買収し、ホテル経営やリゾート開発へも乗り出すなどセゾングループを形成(これには、父の不動産事業を継いだ義明への対抗心もあったと言われている)〔文藝春秋2015年6月号 堤清二「最後の肉声」〕。また、ラコステブランドなどを取り扱う大沢商会や牛丼の吉野家など倒産した企業をセゾングループに組み入れ、見事に再建させた。マスコミも彼に注目し、財界の若きプリンスともてはやすようになる。 脱大衆文化と称して、DCブランドの展開や、無印良品、ファミリーマート、雑貨店のロフト、セゾンカード、FM放送のJ-WAVE、オーディオ・ビジュアル(AV)ソフト(CD・DVD等)の小売店チェーンWAVE、大型書店のリブロなどの事業も始める。田中一光、山本耀司らとの交流の中から、無印良品のヒントを得たといわれる。糸井重里による「不思議、大好き。」「おいしい生活。」などのキャッチコピーは西武百貨店を80年代文化の担い手として印象付けた。また、海外有名ブランドの導入を積極的に推進し、エルメス、ラルフ・ローレン、イブ・サンローラン、アルマーニ、ミッソーニなどを日本の百貨店で最初に導入したのは西武百貨店を始めとするセゾングループである。さらに、セゾン美術館などメセナのさきがけといわれる活動も始める。1983年、自伝的小説『いつもと同じ春』で平林たい子文学賞受賞。しかしバブル崩壊により、金融機関からの借り入れに依存して事業の急拡大を進めていたセゾングループの経営は破綻を迎え、1991年に堤は同グループ代表を辞任。2000年には西洋環境開発(同年清算)を含むグループの清算のため、保有株の処分益等100億円を出捐し、セゾングループは解体された。一方、1995年に堤清二名義で書き学位請求論文として中央大学に提出した『消費社会批判』が認められ、博士(経済学)の学位を取得(論文博士)。翌1996年に岩波書店から書籍化される。 1980年代までは、「実業家・堤清二」の活動が主となり、「詩人/小説家・辻井喬」は寡作だったが、セゾングループ代表辞任後は精力的に作家活動を展開。1992年、詩集『群青、わが黙示』を上梓し高見順賞受賞。1994年、『虹の岬』で谷崎潤一郎賞受賞。先述した「父との確執と、父への理解」に加え、自身の特異なプロフィールに由来する、大企業の経営者というモデルを通じた「人間の複雑な内面」の描写が小説の特徴であり、『父の肖像』(2004年)はその集大成と言えよう。 2005年に堤義明が一連の不祥事で逮捕され、西武鉄道グループの再編・再建活動が活発化すると、義明への批判を展開。財界においては「経営者失格とされた人」であり、実業家としてはすでに引退した人物と認識されていたが、異母弟の猶二と共に西武鉄道へ買収提案を行うなど、実業家、西武の創業者一族としての活動も展開した。 2000年には小説『風の生涯』で芸術選奨文部科学大臣賞受賞、詩の業績で藤村記念歴程賞受賞。2004年に『父の肖像』で野間文芸賞受賞。2006年3月には近作をはじめとする小説群の旺盛な創作活動により日本芸術院賞恩賜賞を受賞した。2006年、詩集『鷲がいて』により現代詩花椿賞受賞。2007年、同作により読売文学賞詩歌俳句賞受賞。同年、日本芸術院会員となる。2009年、『自伝詩のためのエスキース』で現代詩人賞受賞。2012年、文化功労者。 政治家にはならなかったが、父康次郎が池田勇人と仲が良かったことから〔上之郷利昭『堤義明は語る』 講談社 1989年 ISBN 061843834 126頁〕〔『叙情と闘争 -辻井喬+堤清二回顧録-』113-118、313-314頁〕〔『堤清二と昭和の大物』107-120、228-252頁〕、池田や佐藤栄作、田中角栄、大平正芳ら政治家とも交流を続けた〔。特に白洲次郎から生前「宮澤喜一を総理にするのを手伝え」と言われていたため宮澤総理の誕生にも関わっている〔〔。 「九条の会」傘下の「マスコミ九条の会」呼びかけ人を務めていた(辻井喬名義)〔マスコミ九条の会(よびかけ人はだれですか) 〕。 2013年11月25日、肝不全のため東京都内の病院で死去〔堤清二さん死去 元セゾングループ代表 日刊スポーツ 2013年11月28日閲覧〕。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「堤清二」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Seiji Tsutsumi 」があります。 スポンサード リンク
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