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横田 国臣(よこた くにおみ、嘉永3年8月9日(1850年9月14日) - 1923年(大正12年)2月24日)は、明治・大正時代の司法官僚、法律家。法学博士。司法次官、検事総長、大審院院長(現在の最高裁判所長官)等を歴任。法典調査会第三部長(刑法起草責任者)。和仏法律学校(現在の法政大学)校長。位階勲等は正二位勲一等。爵位は男爵。 == 生涯 == 肥前島原藩士・横田宗雄の長男として豊前国宇佐郡辻村〔島原藩領の飛び地〕(現在の大分県宇佐市)に生まれる。1865年、日田の咸宜園に入塾し、漢学などの各種学問を学ぶが、同期に清浦奎吾(後の内閣総理大臣)がおり、横田は清浦の力添えも得ながら出世していくことになる。 中津市立学校を経て1872年に上京した後は、慶應義塾に入学し、1873年に清浦の斡旋で埼玉県の師範学校教諭となった。その後、1876年に司法省に出仕してからは、検事、司法少書記官と昇進し、1886年司法官の一員としてドイツに留学〔この時のドイツ留学組には、高木豊三、加太邦憲、河村譲三郎、富谷鉎太郎、田部芳、石渡敏一などがいた。〕。一人だけ官費での留学延長が認められ、5年間の留学の後、1891年に帰国した。 翌1892年1月に「刑法改正審査委員会」が司法省内に設置されると、横田は委員に任命され、翌月には委員長となり、以後刑法改正案の起草において責任者として中心的な役割を果たすことになる。また、同年11月には当時司法次官となっていた清浦に抜擢されて、初代民刑局〔司法省の民事局と刑事局が合併した後に誕生した部局〕長に就任し、刑法改正審査委員会のほか、民事訴訟法調査委員会・刑事訴訟法調査委員会も取り仕切った。 横田は法典論争においては実施断行派であったが、1893年に法典調査会が設置されると、主査委員に任命され、民法典の編纂にも積極的に関わった。1896年10月には、第2次松方内閣で司法大臣となった清浦のもとで司法次官に昇進し、1898年1月には公務のかたわら和仏法律学校の校長にも就任した。 第3次伊藤内閣末期の1898年6月、高木豊三(後任の民刑局長)、加太邦憲(東京裁判所長)と組んで、春木義彰(検事総長)、北畠治房(大阪控訴院長)ら老朽司法官の淘汰を断行。一方、横田は検事総長、高木は司法次官、加太は大阪控訴院長に就任したため、北畠らは憤り、首相の大隈重信、法相の大東義徹を動かし、同年10月、横田は懲戒免官となった。 ところが、第1次大隈内閣(隈板内閣)は短命に終わり、官僚閥の第2次山縣内閣で再び司法大臣となった清浦により、1899年3月、わずか半年で懲戒処分を免ぜられて復職。後期法典調査会においては第三部(刑法典担当)の部長に任ぜられ、引き続き刑法改正案の起草責任者となった。 1904年には検事総長に返り咲き、1906年には大審院院長まで昇りつめた。以後、1921年に定年退職するまで約15年の長きに渡って院長を務め、歴代院長の中で最長在職期間(戦後の最高裁判所長官を含めても歴代1位)を記録している。1921年に裁判所構成法の改正により判事定年制が導入されたのは、横田が自発的に退職しなかったためであると言われる。大物大審院院長であった横田に引導を渡したのは原敬内閣であり、この法律は俗に「横田退治法」などと呼ばれた。 1915年12月1日、男爵を叙爵〔『官報』第1001号、1915年12月2日。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「横田国臣」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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