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横田 尹松(よこた ただとし/ただまつ〔横田家の人物名には「松」を「とし」と読ませる場合と「まつ」と読ませる場合がある。高柳光寿・岡山泰四・斎木一馬 『新訂 寛政重修諸家譜』第7巻、続群書類従完成会、1965年、350頁以下を参照。〕)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。江戸幕府の旗本(寄合)である。 == 生涯 == 天文23年(1554年)、横田高松の娘婿である横田康景(綱松)の長男として生まれる。武田二十四将として有名な原虎胤の孫にあたる。母は武田家臣の向山氏。 はじめ武田信玄に仕え、元亀3年(1572年)12月の三方ヶ原の戦いに参加した。天正3年(1575年)5月に父が長篠の戦いで戦死したため、家督を継いで武田勝頼に仕え、足軽大将に抜擢された。天正7年(1579年)8月からは岡部元信と共に遠江高天神城の守将に任じられたが、天正9年(1581年)に徳川家康の攻撃を受けて落城すると、甲斐に戻っている。なお、このときに高天神城では城将岡部元信から小者に至るまで連名して援軍の派遣を勝頼に要請しているが、尹松だけは密かに勝頼に対して兵力の温存のためにも「高天神城は捨てるべき」といった内容の書状を出している〔平山優「横田尹松」(『戦国人名辞典』(吉川弘文館、2006年) ISBN 978-4-642-01348-2)〕。このとき、『甲陽軍鑑』では無事に戻ってきた尹松に対して勝頼が誉めて太刀を与えようとしたが、「祖父・原美濃も横田備中も、父の十郎兵衛も勝って褒美を貰ったことはあるが、自分が負け帰って褒美を貰ったのでは筋がたたない」と言って返したという話を伝えている。 また、高天神城の城将だったころ、武田への降伏に反対して前城主小笠原長忠に幽閉され、引き続き武田方の捕虜になっていた徳川家臣・大河内源三郎(政局)の義に感じ、様々な配慮をしていたという。 天正10年(1582年)に家康と織田信長による甲州征伐で武田氏が滅亡すると、家康の家臣となり、使番・軍監に任じられた。 江戸幕府開幕後は旗本として5000石を領し、大身となり、大坂の陣に参陣した。寛永12年(1635年)7月5日に死去。享年82。 その後の横田氏は三男・述松(のぶとし)が継いだ。その述松を経た横田由松は側衆となって従五位下・備中守に叙任し、さらに横田清松を経て横田準松〔 清松の弟・栄松の子、 〕(のりとし・側衆・従五位下筑後守)のとき、加増されて9500石を領し、旗本最高位となった。輩出者の一人に横田松房がいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「横田尹松」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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