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樺山氏(かばやまし)は、日本の氏族の一つで、薩摩国島津氏の庶流。 == 経歴 == 祖は薩摩国守護島津氏4代当主・忠宗の5男である資久で、日向国三股院は庄内の樺山(現・宮崎県北諸県郡三股町樺山)ならびに早水寺柱を領して「樺山氏」を称したのが始まり。 2代の音久は野々美谷城に住み、領域を接する北原氏ならびに肥後相良氏(その頃は日向庄内にも飛び地があった)と争い、西嶽・下河内を領した。しかし大永元年(1521年)、7代・広久(別名は長久)のときに大隅国の堅利55町・小浜24町、臼崎・持松などに領地替えとなり、小浜の生別府(おいのびゅう、現・鹿児島県霧島市隼人町小浜)に住むようになった。また、この広久の頃より樺山氏は、島津忠良・貴久父子に従うようになり、広久の嫡男で8代の善久は忠良の次女である御隅と縁組した。 8代の善久の頃、本田薫親との抗争により生別府を奪われたが、善久は武勇に優れており、これを追い落として奪還に成功している。また、善久は貴久およびその嫡子である16代島津義久の治世に多大に貢献した。 子孫は江戸時代以降、嫡流は藺牟田(現・鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田)を領して一所持、また13代・久高の次男・久盈を祖とする「伊織樺山家」は寄合衆の家格となる。また樺山姓は直別支流であることから、正徳年間以降は士分以下や他家の奉公人が称することは許されず、更に庶流は特別の場合を除いて音堅氏と改めさせられた(明治3年(1870年)より樺山への復姓が許される)。偏諱は、一所持家と寄合衆の嫡男のみ「久」の字が許され、それ以外は「資」の字とされた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「樺山氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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