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樺 正董(かば〔“樺”の読み方について、『鳥取県百傑伝』や『鳥取県大百科事典』には、“樺(かんば)”ではなく、“樺(かば)”とある〕 せいとう、かば まさしげ〔小野崎紀男著『日本数学者人名事典』現代数学社、2009年 ISBN 978-4768703427〕、文久3年(1863年)6月7日 - 大正14年(1925年)12月27日)は日本の数学教育家・数学者。数学教育近代化の先駆的役割を果たした〔『鳥取県大百科事典』185頁〕。 1960年の安保闘争のとき、死去した東大女子学生樺美智子の曽祖父〔『鳥取県百傑伝』274頁に「彼は、いまでは県人から忘れ去られようとしている。ただ、八年前の三十五年六月の安保闘争のとき、圧死した東大女子学生だった樺美智子さんを知らぬ者は少ないであろう。正董は美智子さんの曽祖父にあたるのである。」とある。〕、社会学者樺俊雄の祖父。 == 経歴 == 鳥取市定府内町に生まれる〔。藤六、とめの長男〔。家庭は織物屋兼紺屋だった〔『鳥取県百傑伝』275頁〕〔『因伯立志人物』(大正四年、鳥取佛教靑年會編纂)には「正董は豊裕(ゆたか)な家に生(うま)れたのではない。貧(まづ)しい家に生(うま)れたのですが其年は文久三年でありました。」とある〕。 13歳の時故郷を出て大阪へ行く。これは、勉強するのに都合の良い所を見付けようとしたのであった。〔『因伯立志人物』53頁〕。しかし金は無く〔、ただ着のみ着ままで出たため、大阪に着いたら最早一厘の貯えもなかった〔。そこで、或る家に奉公することになった〔。主人の使い歩き、時には子守なども命令された〔。正董は快くこんな仕事をし、機会があれば書物を読んで勉強していた〔。 その後、伯父の平井太郎(当時輸出入商)を頼り東京に出、東京物理学校に籍をおき、明治14年(1881年)11月より四ヶ月間、酒井忠量に師事し数学を学んだ〔『鳥取県百傑伝』(昭和45年)276頁〕。 明治15年(1882年)4月埼玉県不動岡中学校の教員となり、間もなく富山師範学校に移った〔。 明治18年(1885年)7月より東京帝国大学理学科に入学し、一ヵ年間寺尾寿について天文学を修めた〔。しかも、数学はもっぱら独習し、英語、仏語、独語などの語学も勉強することを怠らなかった〔。美術、代数、幾何、三角、重学、天文の六科について文部省の教員免許状を受け、永らく中等学校や大学の数学教師を歴任した〔。 明治40年(1907年)欧米各国を巡って数学教育事情を調査研究した〔『鳥取県百傑伝』278頁〕。欧米諸国から帰ってくると、朝鮮総督府に招かれて、約二ヵ年にわたり、朝鮮の数学教科書の編纂に従事した〔。 勤務した学校は不動岡中学、富山県師範学校をはじめとして、岐阜県中学校、新潟県中学校、中央幼年学校、私立成城学校、麻布中学、日本女子大学、慶応大学など十指に及んでいる〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「樺正董」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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