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樽屋(たるや)は、江戸の町政を司る町年寄三家の1つである。家紋は桔梗。江戸草創期以来の旧家で、町年寄を世襲で勤め、当主は樽屋藤左衛門と名乗った。 三家に順位をつけると、奈良屋・樽屋・喜多村家ということになり、町年寄の家格としては第2位となる。 樽屋の拝領屋敷は本町二丁目にあり、場所は江戸城の常盤橋御門を出た本町通りに面した角地であった。160坪ある屋敷地の表側は他の町人に貸し、それぞれ横町から長屋門を入って屋敷に達するようになっていた。樽屋は4人の町人に屋敷を貸しており、その分の年収は明治2年の記録では87両余であった。拝領屋敷の間口13間(京間)のうち東側の5間を享保16年(1731年)に呉服問屋の富山(とみやま)に売却している。この拝領屋敷は武家や他の町年寄と同様、役宅を兼ねており、これがいわゆる町年寄役所である。樽屋の居宅は拝領地の南側にあった本革屋町の自己所有地にあったようである。 == 樽屋の由緒 == 樽屋の祖先は刈谷城城主であった戦国武将・水野右衛門太夫忠政である。その子である弥平太忠頼は今川氏に仕え、永禄3年(1560年)6月に討死。翌年に忠政の孫の水野弥吉は徳川家康に御目見えし、16歳の元服に際して家康の一字をもらい康忠と名乗った。家康の生母である於大の方は忠政の娘であるため、康忠と家康は従兄弟同士である。 元亀3年12月(1573年1月25日)の三方ヶ原の戦いにおいて、武田信玄の家臣12人を討取り味方の大久保甚五郎を救ったため、家康から首の数にちなみ、名を三四郎とせよとの上意があったという。また天正3年(1575年)5月の長篠の戦いにおいて、三四郎献上の酒樽が織田信長に進呈され、三四郎が信玄の家臣松平金太夫を討取ったと聞いた信長は、「かの樽三四郎の働きか」と賞した。このため家康は姓を樽に改めるように命じたという。 天正18年(1590年)の家康江戸入りのときの当主が、この樽三四郎康忠である。 樽家の由緒書に「青貝柄の鑓(槍)壱筋、大権現様(徳川家康)より拝領の由申し伝え、代々諸事仕り候」と記されている。この槍は東京国立博物館に寄託された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「樽屋」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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