|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 樽 : [たる] 【名詞】 1. cask 2. barrel ・ 三 : [み] 1. (num) three
樽谷 恵三(たるや けいぞう、1930年 - )は、広島県出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはフォワード(FW)。 ==来歴== 長沼健、木村現は、広島高等師範附属小学校(現広島大学附属小学校)からのチームメイト〔『栄光の足跡 広島サッカー85年史』49頁〕。広島高等師範附属中学(現広島大学附属高校)、樽谷はセンターフォワードとして、右インナーFW長沼、右ウイングFW木村との超強力布陣で全国中等学校選手権(現・全国高等学校サッカー選手権大会)の戦後初優勝に貢献。3人のスピードは、当時の中学生レベルでは止められなかったと言われ、4試合で計21得点をたたき出した。決勝戦7-1のスコアは、戦後最多得点、及び大会最多得点差記録として現在も残っている。翌年国体も制覇。 この3人を含む広島高師附属中のメンバー8人が卒業後関西学院大学入りし関学の黄金時代を築いた〔『広島スポーツ史』広島県体育協会、1984年、p314〕。このメンバーと鴇田正憲らOBを加え全関学として1950年、全日本選手権大会(天皇杯の前身)で慶應義塾大学を6-1で降して優勝。 1953年、東洋工業(現マツダ)へ。東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)に所属し、下村幸男、銭村健次、重松良典らと活躍し、1955年には全日本実業団でも初の決勝進出〔『栄光の足跡 広島サッカー85年史』56-59頁〕。田辺製薬に0-2と敗れ準優勝に終わったが翌1956年には田辺製薬の7連覇を阻み初優勝、チームに初の全国タイトルをもたらした〔。 東洋工業時代の1953年には母校・広大付属東千田高校のコーチとして、大橋謙三を擁し全国高校サッカー選手権優勝に導く〔『栄光の足跡 広島サッカー85年史』55頁〕。史上初の両校優勝の相手は大阪府立岸和田高校で、1945年全国優勝した時のメンバー・木村現がコーチを務めていた〔。敵味方で優勝を分け合った格好になった。 選手引退後は社員として東洋工業/マツダに勤めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「樽谷恵三」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|