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橋 健三(はし けんぞう、1861年2月11日(万延2年1月2日) - 1944年(昭和19年)12月5日)は、日本の漢学者。開成中学校校長(第5代)。夜間中学・開成予備学校(のちに昌平中学)の校長。 作家三島由紀夫の祖父。橋倭文重の父。 == 経歴 == 1861年(万延2年1月2日)、加賀国金沢区(現石川県金沢市)大豆田町で、加賀藩士の父・瀬川朝治と母・ソトの間に、二男として生まれる。幼少より漢学者・橋健堂(加賀藩学問所「壮猶館」教授)に学ぶ。 1873年(明治6年)12月7日、12歳のとき、学才を見込まれて健堂の三女・こうの婿養子となり、橋健三と名乗る。健堂から漢学塾「集学所」を受け継ぎ、教授となる。 1884年(明治17年)2月6日、こうとの間に、長男の健行を儲ける。やがて、廃藩置県により覚束なくなっていた「集学所」をたたみ、妻子を連れて上京し、小石川に学塾を開く。 1888年(明治21年)、共立学校(開成中学校)に招かれ、漢文教諭として漢文と倫理を教え、幹事に就任。妻・こうの死亡により、1890年(明治23年)、健堂の五女・トミを後妻とする。トミとの間には、雪子、正男、健雄、行蔵、倭文重、重子の三男三女を儲ける。 1894年(明治27年)、学校の共同設立者に加わる。1900年(明治33年)、田辺新之助を校長に第二開成中学校が神奈川県逗子町に開校され、同校の幹事となる〔1936) 〕。1903年(明治36年)、開成中学校にわが国初の夜間中学・開成予備学校が田辺新之助により併設される(のち1936年(昭和11年)に校名を昌平中学と改称)。 1910年(明治43年)、第二開成中学校の分離独立に際して、開成中学校の第5代校長に就任する。開成中学校校長としての健三の事績は『開成学園九十年史』に詳らかである。 1915年(大正4年)、学校の移転拡張を図るため、学園組織を財団法人とし、理事となる。(当時の寄付行為第5条には、3校主(健三、石田羊一郎、太田澄三郎)が学校の動産及び不動産の全部を寄付し之を財団法人の財産とすることが謳われており、「この3校主の勇気決断は、この学校の出身者の特に肝に銘記しなければならないことである」と学園史に記されている) 多年の功績により、1923年(大正12年)2月、勲六等に叙せられ、瑞宝章を授与される。 1928年(昭和3年)、開成中学校校長を辞職後は、夜間中学・開成予備学校(昌平中学)の校長として、勤労青少年の教育に尽瘁する。1936年(昭和11年)4月18日、長男・健行(享年52)を病気で亡くす。 1944年(昭和19年)、四男の行蔵にその職を譲り、故郷の金沢に帰る。同年12月5日、死亡。享年84。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「橋健三」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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