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橋 健堂(はし けんどう、1822年(文政5年)- 1881年(明治14年)12月2日)は日本の漢学者、書家。加賀藩学問所「壮猶館」教授。 作家三島由紀夫の曽祖父。橋倭文重の祖父。 == 生涯 == 1822年(文政5年)、加賀国金沢(現石川県金沢市)で、加賀藩士の父・橋一巴(幸右衛門)と金沢出身の母との間に二男として生まれる。幼少より書を善くした。父・橋一巴(いっぱ)は漢学者、書家で、「鵠山」と号した。健堂の兄・往来(ゆきき)も漢学者、書家で、「石甫」「対蘭軒」と号した。 成人し、長町四番丁(城下西部)に「弘義塾」を開くとともに、石浦町(城下中央部)に「正善閣」を開いて習字を教える(後者の対象は女子である)。健堂は、多数の子弟を教育し、「生徒常に門に満つ」と称された。金沢の大村家の娘と結婚し、六女を儲ける。 1854年(安政元年)、加賀藩による「壮猶館」の開設に伴い、漢学教授となる。1867年(慶応3年)、卯辰山に漢学塾「集学所」を開き、平民教育にも力をそそぐ。この「集学所」は時間割を自由にして夜学の部が設けられ、現代の夜間校のはしりでもあった。 1870年(明治3年)、藩の文学訓導、筆翰教師となる。廃藩置県後の1873年(明治6年)、小学校三等出仕に補される。1875年(明治8年)、二等出仕に進み、1879年(明治12年)、木盃をもって顕彰される。 子がいずれも娘であったため、1873年(明治6年)に瀬川健三を三女・こうの婿養子とした。健堂の『蒙求』中心の漢学や庶民教育にかける熱意は、養子の健三に継承される。 1881年(明治14年)12月2日、59歳で没し、野田山に葬られる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「橋健堂」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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