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橋元 親(はしもと ちかし、1923年1月 - 2000年1月29日)は、日本の柔道家(9段)。元全柔連参与、近畿地区柔道連盟評議委員、関西学生柔道連盟会長。 ==経歴== 宮崎県延岡市出身。宮崎県立延岡中学校入学と同時に、幼少からの病弱を案じた両親の意向に従い剣道部に入部した。2年生になり柔道部へ移ると、武専出身の平野直の手ほどきを受けて成長したほか、家から学校までアップダウンのある片道15kmを自転車で毎日通学し、これにより強靭な足腰が出来上がっていったという。三年生で初段、翌年に2段、卒業時には当時少なかった3段にまで昇段している。 1941年4月に京都武専へ入学し、同年の暮れには4段を許される。この頃の武専の先輩には松本安市や吉松義彦ら猛者揃いであり、橋元はその人ごとに揉まれて鍛えられていった〔。2年生の時には夏季休暇を利用して鳥取砂丘で野外柔道という荒稽古も行ったという〔。また、同じ宮崎県出身で主任教授を務めていた磯貝一や教授の広瀬巌らからは、心技の両面において特に厳しく指導を受けた〔。 釣込腰や裏投等を武器に“わざ師・橋元”の名を広め、その成長ぶりを証明するかのように1942年5月に武徳会から錬士号を、1943年7月には等級で一等(5段)を授与されている〔一ただし、戦争の機運が漂う当時の日本では学生柔道の大会も減少し、橋元の主だった戦績としては1942年の全日本学生東西対抗大会への出場記録が残っている程度である。〕。1943年12月、学徒出陣のため繰上げ卒業。 帝国海軍では特攻隊としての訓練を受けるも、出陣の直前に終戦を迎え、復員。 終戦後の1948年9月には宮崎県警の柔道部に籍を置いた。実に5年振りに柔道衣に袖を通したものの実力の低下が激しく、稽古衣を着るのも嫌になったという〔。「一から出直し」として自信を奮い立たせた25歳の橋元は、休暇を利用して東京の講道館へ通うなどして鍛え直し、徐々に昔へ返って行った。 1949年10月の全日本東西対抗大会に出場して優秀選手に選出されたり、1952年の全日本選手権へ出場して、かつて2度全日本王者に輝いている石川隆彦と互角の戦いを繰り広げたほか、団体戦でも宮崎県警の九州管区警察柔道大会での3連覇(1948-1950年)や全国警察柔道大会での優勝(1949年)に貢献した。なお、この時の宮崎県警には中村常男や朝飛速夫らも所属しており、決勝戦での大阪府警との試合では5対0という快挙を成し遂げている。 1952年9月に福岡県警へ転籍後も全日本東西対抗試合に8度出場し、最優秀選手賞を1度、優秀賞を3度受賞。とりわけ1956年9月に開催された東西対抗大会では、同年春の第1回世界選手権を制した夏井昇吉を袖釣込腰で下し、会場の大阪府立体育館は大きなどよめきと拍手に包まれたという〔。また、体重無差別の全日本選手権にも、身長176cm・体重80kgという小躯ながら〔1952年から57年まで6大会連続で出場している。 1955年1月に天理大学体育学部へ講師として迎えられると、自身も選手として活躍し1957年の全日本選手権で3位入賞する傍ら、松本安市と共にアントン・ヘーシンクら後進の指導にも当たり、後に助教授・柔道部主任師範・教授を歴任する。なお、柔道部の初代主将を務めた今村春夫(現・全日本柔道連盟国際委員)は、スパルタ指導をする松本に対し橋元は非常に温厚な人柄で、松本が父親、橋元が母親のような役割であったと雑誌「近代柔道」に寄稿している。 指導者としては、親善大会の日本チームの監督としてのソ連・西ドイツへの遠征に加え、外務省の文化使節としてアフリカを2ヶ月間回り指導したほか、国際柔道審判員も務めるなど柔道の国際普及に大きく貢献した。 1985年の天理大学を定年退職すると旭化成の柔道師範として招かれ、1987年より故郷・宮崎にて指導を行った。 1992年、九段に昇段し赤帯を許される。2000年1月29日に肺炎のため逝去。享年77。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「橋元親」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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