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橋本 一巴(はしもと いっぱ、生年不詳 - 永禄元年7月12日(1558年9月4日))は、戦国時代の武将・砲術家。織田信長の火縄銃の師匠であった。名は一把とも。また道求の名でも伝わる。官職名として伊賀守を称した。 == 人物 == 尾張国中島郡片原一色城の城主の家系であったという。 『信長公記』によると、信長は16、7、8歳のころ、弓を市川大介、鉄砲を橋本一巴、兵法を平田三位に付いて稽古した〔太田牛一 『信長公記』 巻首 「上総介殿形儀の事」〕。この情報は、尾張の味鏡村の天永寺に住む天台宗の僧・天沢が甲斐を訪れた際、彼を通じて武田信玄にも伝えられている〔太田牛一 『信長公記』 巻首 「天沢長老物かなりの事」〕。 同時代の史料ではないが、寛永10年(1633年)に記された『国友鉄炮記』によれば、一巴は天文18年(1549年)に鉄砲撃ちとして世上に名高いことが信長の耳に達して召抱えられ、同年7月18日に、信長の命で国友村の鉄砲鍛冶・国友善兵衛らに六匁玉鉄砲500挺を注文したという。 永禄元年(1558年)の浮野の戦いでは、一巴は弓の達人・林弥七郎と二つ玉〔2発の弾丸を込めること。後北条氏では、2発の弾丸を紙で包み1発にした弾丸も作られた。(宇田川武久『鉄砲と戦国合戦』、吉川弘文館、2007、 ISBN 978-4-642-05546-8 、175ページ)。〕を用いて鉄砲対弓矢の戦いを演じた〔太田牛一 『信長公記』 巻首 「浮野合戦の事」〕。その戦闘で相打ちする形で戦死した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「橋本一巴」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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