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橋本伊与子 : ミニ英和和英辞書
橋本伊与子[はしもと]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [はし, きょう]
 【名詞】 1. bridge 
: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

橋本伊与子 ( リダイレクト:姉小路 (和宮の大叔母) ) : ウィキペディア日本語版
姉小路 (和宮の大叔母)[あねのこうじ]
姉小路(あねのこうじ、文化7年2月12日1810年3月16日)〔畑尚子「姉小路と徳川斉昭 内願の構図について」『茨城県史研究 94号』p1-18、2010年〕〔橋本家譜より。『国史大辞典』では寛政7年(1795年)生まれ。〕 - 明治13年(1880年8月9日)は、幕末大奥上臈御年寄。諱は勝子。小上臈の時はいよ伊与子)と称した。父は橋本実誠。兄に実久、妹に水戸藩老女・花野井がいる。和宮の生母である観行院(橋本経子)の叔母にあたる。
第11代将軍・徳川家斉から第12代将軍・徳川家慶の治世の間、大奥に君臨した〔但し、当時の筆頭老女は万里小路局と推定され、姉小路ではない。畑尚子「姉小路と徳川斉昭 内願の構図について」p12。〕。将軍家の縁組に関しては姉小路が独断で差配していたとされ、後の第13代将軍・徳川家定の正室・篤姫の輿入れに際しても、当初は大奥側の担当者として島津家との交渉を行っていた。一方で、政敵への陰謀の画策や天保の改革の妨害を試みるなど、政権運営にも影響力を及ぼした。
== 生涯 ==
姉小路は、文政9年(1826年)3月、17歳で江戸に下向、大奥に入った。文政11年(1828年)6月6日、小上臈しんとして第11代将軍・徳川家斉の娘・和姫付き女中となり、10月4日上臈年寄に昇格し庭田と改める。和姫と長州藩世子・毛利斉広との縁組が文政6年に決まっていたので、姉小路の下向は、和姫輿入れの際の上臈年寄となるためと考えられる〔将軍の姫が嫁すときには、上臈年寄が付けられる。〕。翌文政12年(1829年)11月、和姫が毛利斉広に輿入れするのに従って、毛利家の桜田上屋敷に移った。しかし、文政13年(1830年)7月、和姫は入輿から1年と経たず死去したため、11月に御付女中たちは江戸城に戻った。その後、将軍付となるに際し再び小上臈となったようで、天保2年(1831年)正月元旦条に将軍・家斉付の小上臈いよが確認される。天保7年(1836年)9月4日、西の丸に移り将軍世子・家慶付の上臈御年寄となり、姉小路の名を拝領した。翌天保8年(1837年)9月、家慶が将軍に就任すると、姉小路も将軍付上臈御年寄となって本丸大奥に入り、権勢を一身に集めるようになる〔。
姉小路は表の人事にも口を出し、大名家の婚姻・養子縁組の斡旋を行ったため、大名からの大奥への内願の窓口となり、『旧事諮問録』によると、金銀が入れられた菓子折りが部屋に積まれていたという。公家の女子が就くことが多い上臈御年寄は、地位は高いものの権力を持たないことが多いが、姉小路は例外的に絶大な権勢を持ったため、家慶と閨を共にしたとの説もあり、当時の江戸市中でもその風聞が流れていたという〔氏家幹人『江戸の女の底力』世界文化社、2004年〕。
天保15年(1844年)に姉小路が食していた天ぷらが原因で火事を起こし、本丸を全焼させてしまう。この火事は、奥女中が数百人死亡するという大惨事となった。姉小路は広大院付の上臈御年寄・梅渓に罪をなすり付けた。梅渓のその後は知られていない。
姉小路は、妹・花野井水戸藩老女となっていたことから、第9代水戸藩主・徳川斉昭としばしば直接に文通を行い、その内容は『新伊勢物語』〔斉昭と老中阿部正弘との往復書簡を集めたもの。『茨城県史料 幕末編Ⅰ』茨城県、1982年に収録。〕に記されている。嘉永3年(1850年)7月から8月にかけては、将軍家慶の養女として大奥に入った線姫(幟子女王)の縁組み問題について、書状で激しい遣り取りを交わしている〔。
嘉永6年(1854年)、家慶が死去すると落飾、勝光院と号して上臈御年寄を退き、隠居した。隠居先は、長州藩毛利家下屋敷麻布龍土邸であった〔『国史大辞典』「姉小路」項。毛利家の檜屋敷。〕。宿元は、毛利讃岐守(長門清末藩主毛利家)。引退したとはいえ、政治的発言力は保っていた。
公武合体の一環として第14代将軍・徳川家茂御台所に兄・実久の孫娘・和宮を迎える政策で、勝光院は和宮の降嫁を橋本家や姪の観行院(和宮の母)に何度も要求したという。自ら京都に赴き、降嫁を要求したこともあった。
慶応2年(1866年)12月9日、家茂死去により行われた和宮の薙髪式のため、江戸城に登城、和宮の髪先を削ぐ役目を担った〔『静寛院宮御側日記』より。〕。これ以降の動向については、一次史料に見られなくなり、詳細ははっきりしない〔。
明治13年(1880年)に死去し、増上寺山内松蓮社に葬られたという〔『国史大辞典』「姉小路」項。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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