|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 橋 : [はし, きょう] 【名詞】 1. bridge ・ 本 : [ほん, もと] 1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation ・ 凝 : [しこり] 【名詞】 1. stiffness (in shoulders) 2. swelling 3. hardening ・ 胤 : [たね] 【名詞】 1. issue 2. offspring 3. paternal blood
橋本 凝胤(はしもと ぎょういん、1897年4月28日 - 1978年3月25日)は、法相宗の僧侶で仏教学者。奈良・薬師寺元管主、法相宗管長。「20世紀最後の怪僧」「昭和の怪僧」の異名を持つ。 == 生涯 == 奈良県平群村(現平群町)に生まれる。本名、東丈太郎。法隆寺の佐伯定胤に唯識を学び、その意向で後継者のいなかった薬師寺に入る。生涯肉食妻帯せず、厳格な仏教僧として活躍する。有名な尼僧が訪ねてきても絶対に寺に入れさせず、その手土産にも口をつけなかった。 あるとき弟子の高田好胤がよその家に呼ばれて、レコードで浪曲の「清水港は鬼より怖い、大政・小政の声がする」というくだりを耳にして、薬師寺にはもっと怖い鬼(橋本凝胤)がいると思ったという。夕食後読経の練習のとき居眠りすると火箸でたたかれたり、深夜に外に追い出された高田が怖さに泣くと「安眠妨害じゃ!訴えるぞ!」と叱った。しかし、一方で遠足、運動会などのときに弁当を作ってくれるような愛情も持っていたという。 朝4時には起床。6時から8時まで弟子に講義をし、昼は外出しても夜は必ず寺に戻り、弟子を教育する。ある朝6時、誰も弟子が来ていなかったが一人で講義を始めていたという。その結果多くの弟子を育てた。 仏教学者としては、「大正新脩大蔵経」編纂に参画した。中国を遍歴、チベット仏典を収集、請来する。奈良県文化財保護や、インドに日本寺建立のため尽力した。インドのブッダガヤに仏塔を建立。 経済界や政界とは交流が深く、政治家では大野伴睦と親交があったほか、佐藤栄作とも交流があった。財界では「電力の鬼」といわれた松永安左エ門、阪急社長の小林一三と交流があった。こうした政財界との交流の結果、遅遅として進まなかった平城宮跡の国有化を実現に導いた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「橋本凝胤」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|