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橋本勘五郎(はしもとかんごろう、文政5年(1822年) - 明治30年(1897年))は、江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した肥後藩の石工である。元の名は「丈八」。肥後の通潤橋に携わり、東京の万世橋などを手掛けた。種山石工の一人。 ==生涯== 嘉八の三男として文政5年(1822年)、肥後藩種山村(現・熊本県八代市)に生まれる。種山石工の祖、藤原林七は祖父にあたる。石工としての技術を学んだ丈八は、兄弟の卯助、宇市とともに若いころからアーチ型石橋を架け続ける。弘化4年(1847年)、丈八26歳のとき卯助を助け霊台橋(現・下益城郡美里町)を6か月で完成させ、その5年後、今度は宇市のもとで通潤橋(現・上益城郡山都町)を建造した。通潤橋の架橋後、肥後藩より苗字帯刀を許され、橋本勘五郎と名を改められた。 明治4年(1871年)、明治政府に招かれ宮内省土木寮勤めとなり、万世橋を明治6年(1873年)に、翌年に浅草橋と蓬莱橋、そしてさらに翌年に江戸橋と京橋を架けた。皇居の二重橋(正門石橋)も架けたと言われるが、明治20年完成とされており勘五郎の作かは定かでない。当時の宮大工、武石惣十も関わっていたという説もある。明治6年5月に大手門内の石橋を修理したと言われるが、具体的にどの橋か判らない。明治7年元日には歌会始に出席し、同年秋に帰郷した。 熊本に戻ってからは熊本市の明八橋、明十橋、菊池市の竜門橋を残した。明治30年(1897年)、種山村にて76歳で死去。八代市東陽町北の石匠館の近くに生家が残っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「橋本勘五郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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