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橋本 広喜(はしもと ひろき、1972年8月4日 - )は、日本中央競馬会 (JRA) の元騎手で現在は調教助手。宮城県出身。騎手にしては丸顔だったことから、騎手時代には「アンパンマン」の愛称があった。 == 来歴・人物 == 競馬学校7期生として入学。卒業後の1991年、美浦トレーニングセンターの藤沢和雄厩舎所属騎手としてデビュー。競馬学校の1期下に同姓の橋本美純がいたため、1992年からは競馬新聞等では「橋本広」という表記が用いられた。 藤沢厩舎の弟弟子には青木芳之、北村宏司、塚田祥雄が、競馬学校同期には藤田伸二、四位洋文らがいる。初騎乗は同年3月2日、小倉競馬第3競走のチェスティートで、12頭立ての6着だった。初勝利は、同日の第5競走でホッカイカオリに騎乗してのものであった。この年のJRA賞最多勝利新人騎手は、39勝を挙げた藤田伸二だったが、橋本も31勝を挙げるなど、関東期待のホープとして注目された。また、藤沢と岡部幸雄の関係もあり、岡部を中心に当時構成されていた騎手人脈のいわゆる「岡部ライン」の末端に属する形となったこともあって将来を嘱望される有望株と目されていた。1993年の京成杯(オースミポイント)で重賞初勝利〔『優駿』1993年3月号、日本中央競馬会、142頁〕。 しかし、1990年代当時はまだ岡部も第一線で活躍していた時代で、橋本が好走させた馬が次走では馬主希望で岡部や「岡部ライン」のより上位リーディングの騎手に乗り替わりになるというパターンも多々起きるなど、ときには「岡部ライン」がかえって壁になってしまう格好となりがちで重賞勝ちにはなかなか手が届かず、重賞は通算10勝を挙げたものの、GIレースは勝利できなかった。 騎手生活の晩年には腎臓結石を発症、これによって体重の維持が困難になったため〔競馬人 Vol.82 週刊競馬ブック 2011年2月19日・20日号〕、2003年10月31日付で騎手を引退し、調教助手となる。小島太厩舎を経て、2004年から伊藤圭三厩舎に所属している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「橋本広喜」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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