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橋本 徹郎(はしもと てつろう、1900年1月1日 - 1959年2月25日)は、日本の洋画家・デザイナー(主としてグラフィックデザイナーであるが、インテリア、建築、ファッションについても論文を執筆・発表している)・アートディレクター。第二紀会会員、日本宣伝美術会会員。 ==経歴等== *兵庫県加古川郡に生れる。 *関西美術院で洋画を学び、卒業。 *昭和の初めから二科会に入選し、1932年第29回二科展から会友となった(しかしその後出品なし。下記外部リンクの作品リストを参照)。 *1932年には、新建築工芸学院の講師に就任。 *1940年には日本写真工芸社の設立にかかわり、設立後総務部長を勤めている。 *1940年のニューヨーク万国博覧会(後期)の国際館カヴァードスペース日本部に展示された写真壁画4つのうちの1つ「日本産業」(産業日本)の構成を担当(写真は、土門拳、田村茂、溝口宗博、伊藤幸男の4人。印画引伸はジーチーサン協会) *この作品は、日本写真全集(全12巻、小学館(1986年~1988年)、編集委員:小沢健志・桑原甲子雄・重森弘淹・田中雅夫・中井幸一)第11巻(コマーシャルフォト)に図版ナンバー28として掲載されている。 *1944年7月に陸軍美術協会が発行した『絵巻アッツ島血戦』には、橋本の作品が掲載されている。空席通信On The Net (表紙図版あり) *戦後、二科会を離れ、第二紀会の創立に参加して同会の会員となった。作品は、従来の写実風景から抽象的な構成へと推移した。 *1954年には、桑沢デザイン研究所の教員も勤める。沿革 ― 本学園の歩み ― 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「橋本徹郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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