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橋本 忠太郎(はしもと ちゅうたろう、明治19年(1886年)7月3日 - 昭和35年(1960年)2月5日)は、明治から昭和にかけての植物学者、教師。滋賀県女子師範学校等で教鞭をとりつつ滋賀県下の植物調査を行った。 == 略伝 == 明治19年(1886年)7月3日に滋賀県蒲生郡北比都佐村大字十禅師(現滋賀県蒲生郡日野町十禅師)にて誕生。 明治39年(1906年)滋賀県立彦根中学(現滋賀県立彦根東高等学校)、明治44年(1910年)滋賀県師範学校(現滋賀大学教育学部)二部を卒業した〔「自然科学と博物館27(3/4) 1960年6月」 P85「橋本忠太郎氏の訃 大井次三郎」(国立科学博物館)〕。その後、郷里の北比都佐小学校(現日野町立必佐小学校)の教員となり、大正10年(1921年)中学校教員試験検定に合格し翌11年(1922年)より滋賀県女子師範学校、県立大津高等女学校の教諭となった〔〔「滋賀県百科事典」(滋賀県百科事典刊行会編 大和書房 1984年)〕。昭和16年(1941年)定年により両校を退職し、退職後は故郷十禅師にて悠々自適の生活を楽しみ、昭和35年(1960年)2月5日に死去した〔。 忠太郎は、学校の教員として勤務しながら植物に係る研究を続け、県の天然記念物調査にも携わった。郷土の植物誌を作ることを志し、くまなく県内を回り、滋賀県固有植物の標本を採取した〔。忠太郎が採集した標本は、現在も貴重な資料として東京国立科学博物館や京都大学総合博物館に収蔵されている〔〔。昭和11年(1936年)には近江博物同好会を発会し、会誌を発行して博物教材研究を連載すると共に、県下各地で採集会を開催して会員への指導を行った〔。忠太郎は、活動を通じて「サヤマスゲ」・「ワタムキアザミ」など39種の新種植物を発見した。忠太郎が目指した郷土の植物誌は、原稿を完成させたものの未出版のまま死去した〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「橋本忠太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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