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橋本 雅邦(はしもと がほう、男性、天保6年7月27日(1835年8月21日) - 明治41年(1908年)1月13日)は、明治期の日本画家。本名は長郷。幼名は千太郎。号は勝園。 ==生涯== 雅邦の父の橋本養邦(はしもとおさくに)は武蔵国(埼玉県)川越藩の御用絵師であり、木挽町狩野家当主晴川院養信(せいせんいん おさのぶ)の高弟として同家の邸内に一家を構えていた。このため雅邦は天保6年にこの木挽町狩野家の邸内に生まれている。 慣習に従い5歳の頃から実父より狩野派のてほどきを受け、12歳の時正式に父と同じく養信に入門する。ただし養信はこの一月後に没したため、実際にはその後継者である勝川院雅信(しょうせんいん ただのぶ)を師としたと見てよい。この時同日に狩野芳崖も入門しており、7歳年上で穏和な人柄の雅邦と激情家の芳崖と性格は正反対であったが、共に現状の狩野派への不満と独創的表現への意欲を共有し、生涯の親友となる。両者は早くも頭角をあらわし、安政4年(1857年)23歳で塾頭となる。芳崖、狩野勝玉、木村立嶽と共に勝川院門下の四天王と称され、特に芳崖とは「勝川院の二神足」と呼ばれ、塾内の絵合わせでは共に源平の組頭を務めた。 安政7年(1860年)雅邦の号をもらって絵師として独立を許され、池田播磨守の家臣高田藤左衛門の娘・とめ子と結婚する。しかし当時既に絵画の需要は少なく、また明治維新の動乱に際しては一時藩主のいる川越に避難することになる。更に明治3年(1870年)に木挽町狩野家は火災で焼失、雅邦も財産のほとんどを焼失してしまう。翌年には出仕していた川越藩も廃止され、兵部省の海軍兵学校において図係学係として製図を行うようになった。この後狩野派の絵師としての活動はほとんど出来なくなり、一時は油絵を描くことさえ余儀なくされた〔「水雷命中之図 」(東京国立博物館蔵や「豫譲」(川越市立美術館蔵)などの油彩作品が残っている。〕。 転機となったのはアーネスト・フェノロサによる伝統絵画の復興運動であり、フェノロサの庇護を受けていた芳崖と共に新しい表現技法を模索するようになる。明治15年(1882年)の第一回内国絵画共進会では、『琴棋書画図』(MOA美術館蔵)が銀印主席を取り、同じく出品した『竹に鳩』(三の丸尚蔵館蔵)が宮内省の御用となっている。明治17年(1884年)にフェノロサが鑑画会を発足すると早い時期から参加し、盛んに制作を行うようになった。 明治19年(1886年)には海軍兵学校を辞し、文部省の絵画取調所に出仕するようになった。こうしてフェノロサ・岡倉天心の指揮下で芳崖と共に東京美術学校の発足に向けて準備を進めるが、開校を目前にした明治22年(1889年)に芳崖は死去、その絶筆である《悲母観音》の仕上げを任された。このため明治23年(1890年)の東京美術学校開校に際しては、芳崖の代わりに絵画科の主任となった。さらに同年に帝室技芸員制度が発足すると10月2日に第一次のメンバーに選ばれ〔『官報』第2191号、明治23年10月16日。〕、これにより名実ともに当時の絵画界の最高位に登り詰めた。 東京美術学校では下村観山や横山大観、菱田春草、西郷孤月、川合玉堂、寺崎広業、橋本静水らを指導しており、その指導が近代美術に及ぼした影響は大きい。しかし明治31年(1898年)には天心が罷免され(美術学校騒動)、雅邦も職を辞し日本美術院の創立に参加した。 以後、雅邦は在野でありながらも画壇の重鎮として重んじられ、美術院の活動の傍ら後続の指導などを行っている。 明治41年(1908年)に胃癌のため死去した。法名は謙徳院勝園雅邦操居士。墓所は江東区平野にある、元浄心寺の塔頭・玉泉院(江東区登録文化財)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「橋本雅邦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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