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橋立丸(はしだてまる)は、日本海洋漁業統制株式会社(日本水産)が太平洋戦争中の1944年に建造した戦時標準船仕様のタンカーで、戦後に捕鯨母船へ改装された。南極海での捕鯨や石油輸入に従事し、日本の戦後復興に貢献した。 == 太平洋戦争 == 本船は、太平洋戦争における日本の第1次戦時標準船のうち大型タンカー規格である1TL型戦時標準船の18番船として、川崎重工業神戸造船所で建造された。1944年(昭和19年)5月10日に起工、173日間で竣工に至っている。1TL型戦時標準船のうち戦時中に竣工したものとしては最終にあたる〔松井(1995年)、142頁。〕。船名は天橋立に由来し、船主の日本水産(戦時中は日本海洋漁業統制株式会社)が所有する石油タンカー「厳島丸」(戦前建造の川崎型油槽船)および「松島丸」(2TL型戦標船)と合わせて日本三景にちなむ船名が揃っている〔岩重(2011年)、53頁。〕。 1TL型戦標船は川崎型油槽船相当の補給艦などに転用可能な高性能タンカーで、主機関へ生産能力に比較的余裕がある蒸気タービンエンジンを採用し、船体の(舷弧, 船首・船尾の反り上がり)を曲線ではなく直線で構成するなど若干の簡易化を施した設計となっている〔岩重(2011年)、50-51頁。〕。1TL型の後期建造船である本船は初期に起工された船とは細部に違いがあり、初期には単脚型だった2本のマストが補給艦としての運用に便利な門型に変更され、船尾構造物後端に自衛武装用の角型砲座が設置されるなどしている〔。各種の自衛用火器のほか、魚雷撃退用の展開ブームや、レーダー逆探知用の電波探知機なども装備された〔。 1944年11月14日、「橋立丸」は、最初の航海としてヒ81船団(輸送船10隻・護衛艦7隻)へ加入してシンガポールへ石油の積み取りに向かうことになった。船団は途中で輸送船2隻と護衛の空母「神鷹」が撃沈されたものの、「橋立丸」は12月4日にシンガポールへ無事に到着した〔駒宮(1987)、292-293頁。〕。「橋立丸」はさっそくガソリンを満載すると、同様にヒ81船団で到着したタンカー2隻および新規加入のタンカー2隻とともにヒ82船団(輸送船5隻・護衛艦4-5隻)を編成、12月12日に日本へと出航した。ヒ82船団はインドシナ半島沖でアメリカ潜水艦「フラッシャー」の猛攻を受け、同月22日に「音羽山丸」「ありた丸」「御室山丸」が撃沈された。逃げのびた「橋立丸」は積荷のガソリンを台湾の守備隊用に回すことになり、経由地の高雄でヒ82船団を離脱して荷を降ろした〔駒宮(1987)、306-307頁。〕。 荷降ろしを終えた「橋立丸」は、再びシンガポールからの石油輸送任務を命じられた。1945年(昭和20年)1月8日に門司から高雄へ到着したヒ87船団に途中加入すると、10日に高雄を出て南下した。アメリカ海軍第38任務部隊が付近で行動中と判明したため、船団は香港へ退避したが、15日から16日にかけて猛烈な空襲にさらされた。船団は壊滅状態に陥り、「橋立丸」も損傷した〔第一護衛艦隊司令部 『自昭和二十年一月一日 至昭和二十年一月三十一日 第一護衛艦隊戦時日誌』 アジア歴史資料センター(JACAR) Ref.C08030142000、画像50、52枚目。〕。ただし、日本水産の社史では香港ではなく高雄で至近弾により損傷としている〔日本水産(1961年)、418頁。〕。「橋立丸」は護衛艦2隻を伴ってヒ87B船団として航海を続行するよう一旦は指示されたが〔駆逐艦 時雨 『駆逐艦時雨戦闘詳報―昭和二十年一月二十四日「グレートレダン」島沖対潜戦闘』 JACAR Ref.C08030148700、画像47-48枚目。〕、ガス爆発による損傷が大きく修理のため日本へ回航することになった〔駒宮(1987)、318-319頁。〕。 ホモ01船団(輸送船5隻・護衛艦3隻)へ加入した「橋立丸」は、1945年2月3日に香港を出港。2月11日に杭州湾内の地点で機雷に接触して小破し、海防艦「粟国」の護衛で船団から離脱した〔第一護衛艦隊司令部 『自昭和二十年二月一日 至昭和二十年二月二十八日 第一護衛艦隊戦時日誌』 JACAR Ref.C08030142100、画像22、46、49枚目。〕。その後しばらくの行動は不明であるが、3月16日に上海沖で「橋立丸」は貨客船「吉林丸」とモタ02船団またはモタ502船団を組み、駆逐艦「桜」と第二十一号掃海艇の護衛を受けて出航、3月19日に門司へ到着した〔第十一水雷戦隊司令部 『自昭和二十年三月一日 至昭和二十年三月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』 JACAR Ref.C08030127900、画像49枚目。〕〔第二十一号掃海艇 『自昭和二十年三月一日 至昭和二十年三月三十一日 第二十一号掃海艇戦時日誌』 JACAR Ref.C08030611700、画像27、28枚目。〕。 内地に帰りついたものの、すでに戦況の悪化から南方航路は閉鎖されていたため、「橋立丸」は修理の価値がないと判断された〔。大阪港へ係留され、損傷状態のままで終戦の日を迎えた〔日本水産(1961年)、352頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「橋立丸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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