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東京湾汽船(現在の東海汽船)における橘丸(たちばなまる)とは、 # かつて東京湾汽船(現在の東海汽船)が運航していた貨客船。本項で記述。 # かつて東京湾汽船が大正時代に建造し運航していた392トンの小型貨客船で、1の先代にあたる〔#西村 p.1〕。 # 東海汽船が2014年6月に竣工した貨客船で、3代目にあたる。三代目・橘丸で記述。 == 船歴 == === 東京湾の女王 === 設立当初は房総半島方面への航路しか有していなかった東京湾汽船だが、1907年(明治40年)に東京府の命令航路として伊豆大島および伊豆諸島にも航路を開設する〔。初期には100トン級、大正時代には最大で400トン弱の小型貨客船が主力を占めていたが〔#西村 pp.1-2〕、昭和時代に入り、歌曲「波浮の港」の大ヒットや三原山への相次ぐ投身自殺による「自殺の名所」化によって〔#小林 p.314〕、伊豆大島への観光客が大幅に増加した〔#西村 p.3〕。これに先立ち、東京湾汽船では旅客をメインとした貨客船である1929年(昭和4年)に「菊丸」(780トン)〔太平洋戦争中は特設捕獲網艇、海軍病院船として活動。1969年(昭和44年)引退(#日本の客船1 p.201)。〕を、1933年(昭和8年)には「葵丸」(938トン)を建造して観光客の増加に対応させていた〔。しかし、「大島ブーム」を見て取った東京湾汽船では「葵丸」の姉妹船建造計画を大幅に見直し、「葵丸」の倍ある大型船を投入する事を決意した〔。 このような経緯で建造される事になった「橘丸」は、三菱重工業神戸造船所に建造が発注される〔。「橘丸」の特徴としてはいわゆる流線型を上部構造に利用した最初の「流線型客船」であったが、当初は異なるデザインだった〔。「大島ブーム」と同様に「流線型ブーム」を感じた東京湾汽船の専務は、「橘丸」を流線型客船にするよう要請する〔#西村 p.4〕。しかし、南波松太郎主任設計技師〔〔#大内 p.316〕の指導の下で基本設計がすでに終わっていたため、サロン、船橋および煙突の各部に流線型を採用するに留まった〔。1935年(昭和10年)6月3日21時30分、「橘丸」は東京湾汽船の当時のターミナルである霊岸島から初の商業航海に出発し、木更津沖で時間調整の後、6月4日5時に元村沖、7時に下田港に到着した〔#西村 p.5,7〕。就航後は世間のみならず船舶ファンや日本商船界からも大いに注目を集め〔#木俣残存 pp.359-360〕、「東京湾の女王」という異名を授けられた〔#日本の客船1 p.202〕。しかし、大型ゆえに難問もあった。それらは主に「橘丸」が主因のものではなく、「橘丸」を迎えるインフラストラクチャー、すなわち港湾施設であるとか、世情に主因があった。港湾施設の面では、当時の下田港や伊豆大島の港湾施設は「橘丸」の接岸に対応できなかった。下田港では1937年(昭和12年)に岸壁が完成するまで〔#西村 p.7〕、伊豆大島では1940年(昭和15年)に岡田港が完成するまで〔#西村 p.9〕、ともに「橘丸」を沖合いに止めて交通船で往来していた〔。世情の面では、想定したほど観光客の数が多くなく、既成船でも十分対応できる時期には運航を休止していた〔。それに加えて、昭和12年に勃発した日中戦争により観光客の数はいっそう減る事となった。このため、「橘丸」は就航わずか2年足らずで休航することが多くなった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「橘丸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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