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橘 俊綱(たちばな の としつな)は、平安時代中期から後期の貴族・歌人。 == 生涯 == 摂政・関白・太政大臣を務めた藤原頼通の次男として生まれるが、頼通の正室・隆姫女王の嫉妬心のために〔『愚管抄』〕、讃岐守・橘俊遠の養子とされる。『今鏡』によると、俊綱の母・祇子は俊綱を懐妊したのちに橘俊遠の妻となったが、懐妊がはっきりしない頃であったため、俊綱をそのまま俊遠の子としたともいう〔『今鏡』藤波の上,伏見の雪のあした〕。実際には、以降も祇子は頼通の子を儲けていることから、隆姫への配慮のために、懐妊した祇子と俊遠を形式的に夫婦としたとも考えられる〔竹鼻績『今鏡 (中)』講談社学術文庫、1984年、59頁〕。 摂関家の子弟にもかかわらず、尾張守・丹波守・播磨守・讃岐守・近江守・但馬守と地方官を歴任し、位階は正四位上にとどまった。 寛治7年12月(1094年1月)に自ら造営を手がけた伏見の別邸が焼亡すると〔『中右記』寛治7年12月24日条〕、約半年後の翌寛治8年(1094年)6月頃重病により出家し、7月14日に卒去。享年67。最終官位は正四位上修理大夫兼近江守〔『中右記』寛治8年7月14日条〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「橘俊綱」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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