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橘家 文蔵(たちばなや ぶんぞう)は、落語家の名。過去2人存在する。 #1人目の橘家文蔵は後の橘家文三(4代目橘家圓蔵の弟子)。 #本名は井白清一。本項にて詳述。 #3代目橘家文蔵 - 2016年秋に井白清一の橘家文蔵門下の橘家文左衛門が3代目橘家文蔵として襲名〔平成28年 秋 橘家文蔵襲名決定 | 一般社団法人 落語協会 〕。 ---- 橘家 文蔵(たちばなや ぶんぞう、1939年8月25日 - 2001年9月10日)は東京都出身の落語家。本名は井白清一(いしろ せいいち)。生前は落語協会所属。出囃子は『三下り鞨鼓』。 == 来歴・人物 == 中学校卒業後の1955年3月に8代目林家正蔵に入門。もともと噺家希望であったが、担任の友人の一人に正蔵の長屋の向かいにあった同潤会上野下アパートの住人がおり、担任に「向かいに正蔵が住んでいる」ことを教えたあと、進路指導の席で清一少年が進学せずに噺家を希望していることを伝えるや否や、友人の話を覚えていた担任は「職業決定」の判子を即時に押したという〔#正蔵一代 pp.239-240〕。入門時の高座名は、名前の「清一」から「きよいひとつ→きよい→いきおい→勢い」と変化させて「勢蔵」となった〔#正蔵一代 p.240〕。勢蔵で1958年9月に二つ目昇進、1968年9月真打昇進し、橘家文蔵に改名する〔。当時の正蔵は「正蔵」を初代林家三平に遠からず返す気持ちが強かった時期でもあり、兄弟子の五代目春風亭柳朝ともども「わきから貰って」きた亭号をつけていた〔。 派手な存在ではなかったが、軽快でほのぼのとした観客にも分かりやすい語り口で、三味線の下座も得意とした。噺の分かりやすさは、のちの人間国宝である上方落語の三代目桂米朝も一目置くほどであったという〔#正雀 (2012) pp.24-25〕。また、早い時期から学校を対象にした学校寄席に熱心で全国各地を飛び回るほど忙しく、定席に出るのは学校が夏休みの時ぐらいで、「文蔵が 楽屋にいれば 夏休み」という川柳が仲間内で作られるほどであった〔#正雀 (2012) p.23〕。1982年2月7日放送の笑点の師匠彦六追悼特集に弟弟子林家枝二(現:7代目春風亭栄枝)、初代林家木久蔵(現:林家木久扇)、林家九蔵(現:三遊亭好楽)と共に出演する。しかし1990年頃から体調を崩し、その後は高座に上がる機会もめっきり減っていた。2001年9月10日に心不全で死去。享年62。墓所は光徳院。なお、通夜は9月11日夜に行われて葬儀が翌9月12日に執り行われたが、その間にアメリカ同時多発テロ事件が発生し、葬儀では事件の話題で持ちきりになっていたという。 韓国料理やカレーライスを好む一方で鶏肉は受け付けず、鎌倉での鎌倉落語会に正蔵と一緒に出演した際にレストランでカレーライスを食べることとなったが、そのカレーライスはチキンカレーであり、正蔵の手前では何も言わなかったが、正蔵が高座に上がっている間は「やっと我慢して流し込んだよ」などと文句ばかり言っていたエピソードがある〔#正雀 (2012) pp.27-28〕。 弟子に橘家文左衛門がいる。また、彦六没後の一時期には林家正雀を預かり弟子としていた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「橘家文蔵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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