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梶井 基次郎(かじい もとじろう、1901年(明治34年)2月17日 - 1932年(昭和7年)3月24日)は、日本の小説家。感覚的なものと知的なものが融合した簡潔な描写と詩情豊かな澄明な文体で、20篇余りの小品を残す。文壇に認められてまもなく、31歳の若さで肺結核で没した。死後次第に評価が高まり、今日では近代日本文学の古典のような位置を占めている〔。その作品群は心境小説に近く、自らの身辺を題材にしている事も多いが、日本的自然主義や私小説の影響を受けながらも、感覚的詩人的な側面の強い独自の作品を創り出した〔三島由紀夫「文章読本」(婦人公論 1959年1月号に掲載)。『文章読本』(中央公論社、1959年。中公文庫、1973年。改版1995年)〕。 梶井基次郎は当時のごくふつうの文学青年の例に漏れず、森鴎外や、志賀直哉などの白樺派、大正期デカダンス、西欧の新しい芸術などの影響を強く受けていると見られ、表立っては新しさを誇示するものではなかったが、それにもかかわらず、梶井の残した短編群は珠玉の名品と称され、世代や個性の違う多くの作家たち(井伏鱒二、埴谷雄高、吉行淳之介、伊藤整、武田泰淳、吉田健一、三島由紀夫、中村真一郎、福永武彦、安岡章太郎、小島信夫、庄野潤三、開高健など)から、その魅力を語られ賞讃されている〔鈴木&阿部(1985)〕。 == 生涯 == === 生い立ち === 1901年(明治34年)2月17日、大阪市西区土佐堀通5丁目(現・西区土佐堀3丁目)に、父・宗太郎、母・ひさの次男として誕生。父母は共に明治3年生で、維新後に没落した梶井姓の商家の出で(ひさは養女)、名字は同じ梶井。宗太郎は貿易会社の安田運搬所に勤務し、軍需品輸送の仕事に就いていた。宗太郎はひさとは再婚で婿養子。ひさは明治の女子教育を受け、幼稚園の保母として勤めに出ていたが、日露戦争により宗太郎が多忙をきわめた影響で、基次郎が6歳の時に家庭に入った。家族は他に、祖母(宗太郎の母)、祖父(ひさの養父)、5歳上の姉・富士、2歳上の兄・謙一〔JARL会長(1959-68)、住友電線勤務〕がいた。のちに三人の弟(芳雄、勇、良吉)と、二人の異母弟妹(順三、八重子)をもつ。宗太郎は勤勉だったが、酒色を好む放蕩の人でもあった。 1907年(明治40年)4月、大阪市西区の江戸堀尋常小学校(現・花乃井中学)に入学。ひさは教育熱心で、子供に古典の和歌や物語を読み聞かせる(基次郎は成人してからも、母から久野豊彦の『ナターシャ夫人の銀煙管』などを勧められたこともあった)。翌1908年(明治41年)1月、急性腎炎を患い危うく死にかけるなど、病弱な幼少期を過ごす。 1909年(明治42年)12月、父の東京市転勤に伴い、芝区二本榎西町3丁目(現・港区高輪2丁目)へ転居。翌1910年(明治43年)1月、芝白金(現・白金台)の私立頌栄尋常小学校へ転入。学校はハイカラな気風で、欧風の自由主義教育や英語教育がなされ、厳谷小波がお伽話の講話を行っていた。酒びたりの父は外で作った異母弟・順三の親子も上京させ養い、梶井家の家計は質屋に通うほど窮迫し、姉まで内職をする。 1911年(明治44年)5月、再び父の転勤により、一家は三重県志摩郡鳥羽町の社宅に移る。宗太郎は営業部長を務め、羽振りがよくなる。基次郎は鳥羽尋常高等小学校へ転入。海で泳いだり、裏山の神社や城跡を駆けめぐるなど、自然に囲まれた環境で健康的な少年の日々を過ごす。基次郎はこの地方での生活が最も充実した幸せなものであったと綴っている〔梶井基次郎『海』(遺稿、1932年)〕。この年、異母弟・順三の母親が病死し、順三と養祖母が梶井家に同居。翌1912年(明治44年)、基次郎は6年生に進級し級長となる。 1913年(大正2年)、全甲の優秀な成績で小学校を卒業し、兄と同じ宇治山田市の三重県立第四中学校(現・三重県立宇治山田高等学校)へ入学。同市の兄の下宿先(茶人で郷土史家・杉木普斎の家。兄の同級生の家だった)に一緒に住む。洋楽を身につけた音楽の先生に楽譜の読み方を習い、音楽愛好の基礎となる。6月、祖母が肺結核で死去。10月、父が大阪の安田鉄工所に転勤。家族は大阪市北区に移る。 1914年(大正3年)2月、一家は大阪市西区靭南通に移転。4月、名門の旧制北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)へ転入。水泳と音楽が好きな少年で、表面的には比較的大人しく、目立たない生徒だった。翌1915年(大正4年)8月、9歳の弟・芳雄が脊椎カリエスで死亡。 1916年(大正5年)3月、小学校を終えた異母弟・順三が奉公に出される。道義心の強い基次郎はそれに同情し、成績上位で3年終了後に中学を中退してしまい、自分もメリヤス問屋の丁稚となる(のち商店の住込み奉公に変わる)。この年、父が退職し、両親は玉突き屋を開業。翌1917年(大正6年)4月、母の懸命の説得により中学へ復学する。この頃、同校の美少年・桐原真二に惹かれる。この年から兄・謙一は結核性リンパ腺炎で手術を重ねる。 1918年(大正7年)、新学期に基次郎も結核性の病で寝込む。その時に兄に差し出された森鴎外の『水沫集』を読んだのをきっかけに、読書傾向が『少年倶楽部』から文学作品に変わる。『即興詩人』や『漱石全集』を兄から借りて親しむようになる。高校受験の頃、父の知人の美しい娘(高等女学校3年生)に淡い想いを寄せ、そのことを友人に宛て綴る〔『梶井基次郎全集第3巻 書簡・年譜書誌』(筑摩書房、1966年)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「梶井基次郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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