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櫛橋 政伊(くしはし まさこれ)は、戦国時代の武将。播磨国志方城主。異説もあるが(後述)、同城の最後の城主である。 == 名称について == 実名を「政伊」とする史料は主にその子孫に伝えられたものであり、櫛橋家〔政伊の次男・定重の家。〕に伝わる「櫛橋家系図」及び「櫛橋定重象」の賛に記述があるほか、娘婿にあたる井上氏の菩提寺である福岡県北九州市の・弘善寺所蔵「井上之房夫人像」の賛の井上氏系図にもその名が確認できる。また通称は櫛橋家史料では「左京亮」、弘善寺史料では「左京進」となっており、また福岡藩の公式資料『黒田家譜』でも「左京進」とされている。「播磨上月文書」には天正3年(1575年)に「櫛左 政伊」の署名のある発給文書が存在し、「左京」を仮名とした櫛橋政伊という人物は実在のものとみられる。 しかしその実名はその他の史料によっては相違が甚だしく、志方城最後の城主として「伊則」〔赤松支流櫛橋氏との混同。『播磨鑑』でも採用されており、政伊の父とされる櫛橋則伊と同人とされている。〕、「祐貞」〔正確な時代は不明だが、祐貞名義の発給文書が残っており、少なくとも櫛橋祐貞は実在の人物であると思われる。〕、「治家」〔『細川家譜』による。〕と枚挙に暇がない。また志方城跡に建立された観音寺に伝わる「櫛橋之記」所蔵の系図に政伊に相当する人物の名はなく、他史料で父とされる伊定がその代わりに記述されている〔「伊家の子が伊定」という点では共通しているが、他史料で伊定の子女とされる人物(櫛橋光など)が揃って伊定の弟妹とされている。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「櫛橋政伊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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