|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 櫻 : [さくら] 1. (oK) (n) (1) cherry blossom 2. cherry tree 3. (2) decoy 4. fake buyer 5. shill 6. (3) hired applauder ・ 内 : [うち] 【名詞】 1. inside ・ 義 : [ぎ] 【名詞】 1. justice 2. righteousness 3. morality 4. honour 5. honor ・ 雄 : [おす] 【名詞】 1. male (animal)
櫻内 義雄(さくらうち よしお、1912年(明治45年)5月8日 - 2003年(平成15年)7月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(18期)、衆議院議長(第67代)、通産大臣、農林大臣、建設大臣、国土庁長官、自民党政調会長、外務大臣、自由民主党幹事長などを歴任。元日蓮宗全国檀信徒協議会会長〔櫻内義雄 日蓮宗新聞社 〕。従二位勲一等。 父は商工相、農相、蔵相などを歴任した櫻内幸雄。兄は元中国電力会長櫻内乾雄。 == 来歴・人物 == 東京に生まれた〔。幼稚舎から慶應義塾に学び、慶應義塾大学経済学部卒業、鐘紡に入社。1938年応召、翌年除隊。 蔵相の父・幸雄の私設秘書となり、同時に日本電化を経営。1947年、旧東京1区から第23回衆議院議員総選挙に初当選(当選同期に田中角栄・鈴木善幸・増田甲子七・中山マサ・松野頼三・倉石忠雄・荒木万寿夫・石田博英・原田憲・園田直・根本龍太郎・佐々木秀世・中村寅太など)。1949年1月第24回衆議院議員総選挙で落選。その後、第2回参議院議員通常選挙で一人区・島根県選挙区で当選も結果的には当選無効、父・幸雄のあとを継いで旧島根全県区から衆議院議員選挙に出馬し、連続当選17回。 改進党時代には当選同期の中曽根康弘とともに青年将校と称され、自民党内では河野一郎派に属していた。法務政務次官、衆議院外務委員長などを経て、1964年に第3次池田内閣で通産大臣として初入閣。河野の死後は中曽根派の幹部となり、農林大臣、建設大臣、国土庁長官、自民党政調会長、外務大臣、自由民主党幹事長など要職を歴任。 幹事長在職中に第2次大平内閣に対する反主流派の造反があり、桜内は党執行部の長として主流派と自らの所属派閥を含む反主流派の調停に奔走したが果たせずハプニング解散となる。しかし自らの出身の中曽根派からは中曽根の意向もあり稲葉修と中尾栄一の他に造反者は出さなかった。反主流派の造反に加え選挙運動開始直後の大平の急死という異常事態の中で選挙の責任者として主流派・反主流派をまとめ自民党を大勝に導く。その功績や調停における公正さを評価され、ハプニング解散の責任者であるにもかかわらず鈴木善幸政権においても幹事長に留任する。党内抗争の仲裁に当たり「桜内政権」の憶測が浮上したこともある。 中曽根の首相在任中は、派閥会長の座を預かり、派内のまとめ役に徹した。1989年、リクルート事件に関与した疑いで、中曽根が離党後も、一時期派閥を預かった。その後も中曽根と行動をともにし、衆議院議長を退任後は渡辺派→村上・亀井派→江藤・亀井派に属する。 1990年2月から衆議院議長に就任、その10ヶ月後の同年12月財団法人日本プロスポーツ協会初代会長に就任し事実上の統一コミッショナー的役割を果たしプロスポーツ発展にも寄与、毎年日本プロスポーツ大賞受賞者の表彰式に参加〔1986年の総選挙後も党内で議長候補となるが、中曽根派をまとめる人物が桜内以外いないという理由から見送られていた。〕。派閥会長の座を渡辺美智雄に譲った。議長在職中にPKO法案の審議が行われ、牛歩戦術などによる社会党、共産党、社民連の激しい抵抗を排除、また社会党全議員が、辞職届を提出し衆議院解散を迫った際には「前例が無い」として、受理しない対応を取り挫折させている。これらの対応に関して野党から議長不信任決議案が提出されたが、否決されている。1993年6月に宮澤内閣改造内閣不信任決議が可決され、その直後の衆議院解散(嘘つき解散)詔書の読み上げが、議長としての最後の仕事となった。 中選挙区制が廃止された1996年の総選挙では比例代表中国ブロックから当選した。2000年の総選挙にも、比例での出馬意欲を見せていたが(当時の朝日新聞の報道によると本人は「自分はこれまでも、『長寿国日本、長寿県島根、長寿代表桜内』と言って当選してきた。これだけの高齢社会になったんだから、比例名簿のうち何%かは80代以上じゃないといけないようにすべきだ」と発言していた)、2000年に幹事長だった野中広務が、定年制導入を理由に櫻内・原健三郎を引退させ、第42回衆議院議員総選挙と同時に引退した。(年長の)原と共に、明治生まれ最後の代議士であった。 宝塚歌劇団の大ファンで知られ、長らく愛宝会会長を務めた他、日本カヌー協会会長、日本国際貿易促進協会会長等数々の団体のトップも務めた。最晩年に「桜内・原の両元議長が議席にたどりつくまで何分かかるか」というのがテレビ番組でネタになったが、かつては「国会議員速歩の会」を主催していた。 世界連邦運動の推進団体である世界連邦日本国会委員会第9代会長でもあった。また、大隈重信が設立した日印協会の第6代会長をつとめ、岸信介が設立した協和協会の第3代会長をつとめた。 2003年7月5日に、呼吸不全のため東京都内の病院で死去〔。91歳だった〔。法号は宏達院清明義雄日顕大居士〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「櫻内義雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|