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欽哀蕭皇后(きんあいしょうこうごう、? - 1057年)は、遼(契丹)の聖宗の妃。興宗の母であり、皇太后となった。小字は耨斤。 == 経歴 == 蕭陶瑰の子として生まれた。耨斤は後宮に入ると、耶律宗真(のちの興宗)を生んだ。仁徳蕭皇后には子がなかったので、耶律宗真を引き取って自分の子のように養育した。耨斤は息子のために仁徳皇后のそばで仕えたが、内心おもしろくなかった。太平11年(1031年)、聖宗が死去すると、仁徳皇后が蕭浞卜や蕭匹敵らとともに反乱を計画していると馮家奴らに誣告させ、仁徳皇后を上京臨潢府に移した後に殺害した。自ら皇太后として立ち、摂政となり、誕生日を応聖節とした。曾祖父を蘭陵郡王に追封し、父の蕭陶瑰を斉国王とし、蕭孝穆・蕭孝先・蕭孝友といった弟たちをみな王に封じた。 重熙元年(1032年)11月、法天応運仁徳章聖皇太后と尊称された。3年(1034年)、太后はひそかに弟たちを召しだし、次男の耶律重元を立てようと図ったが、重元はその陰謀を興宗に告白した。興宗は太后の符璽を剥奪し、身柄を慶州の七括宮に移した。8年(1039年)7月、興宗は母の身柄をよそに移したことを後悔して、自ら馬車を御して太后を迎え、そばで孝養を尽くした。23年(1054年)11月、仁慈聖善欽孝広徳安靖貞純寛厚崇覚儀天皇太后と尊称された。24年(1055年)8月、興宗が死去すると、太后は取り乱して、「汝の年はなお幼く、何ぞ哀痛かくの如し」と言って悲しんだ。 清寧元年(1055年)9月、太皇太后と尊称された。3年(1057年)12月、死去した。慶陵に陪葬された。4年(1058年)5月、欽哀皇后と諡された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「欽哀蕭皇后」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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